王・忠とは? わかりやすく解説

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王忠Wang Zhong

オウチュウ
ワウチユウ

(?~?)
軽車将軍・都亭侯

扶風の人《武帝紀》。

若いころは亭長をしていたが、三輔地方混乱したとき、飢え苦しんで人肉を喰らったことがある仲間とともに南下して武関まで行ったところ、婁圭が人をやって彼らを出迎えた。王忠は婁圭の手の者を攻撃して武器奪い仲間千人連れて曹操帰服し、中郎将任命された《武帝紀》。

建安四年(一九九)冬、劉備徐州刺史車胄殺害したとき、劉岱とともに追討したが勝つことができず、「汝ら百人来ても俺をどうにもできんぞ。曹公(曹操)自ら来ればわからないがな」と嘲弄される武帝紀》。

五官中郎将曹丕は父曹操遠征従軍したとき、芸人墓場から髑髏持ってこさせ、王忠の馬の鞍に結び付けて、彼が人肉を喰らったことを笑い物にした。

武将軍に就任して都亭侯に封ぜられる建安十八年(二一三)五月曹操魏公封ぜられることを拒絶したが、王忠は群臣とともに受諾することを勧めた武帝紀》。

文帝曹丕)のとき軽車将軍となった黄初五年(二二四)、都の呉質宿所大将軍曹真以下の諸将集まり酒宴催された。曹真肥え太っていることを酒の肴にしようと、呉質芸人命じて肥満痩身のことをしゃべらせた。王忠は腹を立てる曹真なだめるため、驃騎将軍曹洪とともに「まず自分痩せていることを認めるべきだな」と言ったが、結局双方抑えることはできなかった《王粲伝》。

参照呉質 / 車胄 / 曹洪 / 曹真 / 曹操 / 曹丕 / 劉岱 / 劉備 / 婁圭 / 扶風郡 / 魏郡 / 三輔 / 徐州 / 武関 / 軽車将軍 / 五官中郎将 / 公 / 大将軍 / 中郎将 / 亭長 / 都亭侯 / 驃騎将軍 / 揚武将軍 / 食人 / 優(芸人


王忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 14:35 UTC 版)

王忠

都亭侯・軽車将軍
出生 生年不詳
雍州扶風郡
拼音 Wáng Zhōng
主君 曹操曹丕曹叡曹芳
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王 忠(おう ちゅう、? - 242年[1]は、中国後漢末期から三国時代の武将。司隷扶風郡の人。

正史の事跡

若い頃は亭長をつとめていた。三輔が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。その後、衆を率いて武関に入り荊州へ向かうが、荊州州境には婁圭が割拠していた。婁圭はすでに建安元年(196年)、王忠と同様に関中から移動して来た張済を拒み戦死させている。王忠は婁圭に帰属することを望まず、これを攻撃し撃ち破った。その後千人余りの軍を率いて曹操に帰属し中郎将となった。

建安4年(199年)秋、劉備徐州下邳で刺史車冑を殺害し曹操に叛逆した。王忠は曹操の命により劉岱とともに出撃したが、沛県(小沛)に拠る劉備を降すことはできなかった。その後は揚武将軍・軽車将軍を歴任し、都亭侯に封じられている。

建安18年(213年)、公への任命を受諾するよう曹操に促す『魏公國勧進奏』に王忠は名を連ねている。順位は夏侯惇の次、程昱王朗たちよりも上位の八番目に揚武将軍・都亭侯として王忠の名前がある。また、延康元年(220年)、曹丕の家臣団が曹丕に対し、後漢からの禅譲を受けるよう勧めた『魏公卿上尊号奏』にも、王忠は軽車将軍・都亭侯として名を連ねている。順位は曹洪曹真曹休夏侯尚ら曹丕の親族や張郃徐晃張遼といった功臣たちより上位の七番目である[2]。後述の逸話や、これらの表における王忠の名の順位は、王忠と曹操・曹丕親子との親しさ・近さを表している。

逸話

五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。

黄初5年(224年)、魏の皇帝となっていた曹丕(文帝)は友人の呉質のために、上将軍と特進以下の官吏をすべて呉質の宿舎に集め、酒宴を催した。曹丕の寵を鼻にかけた呉質は曹真が太っているのをからかい、酒の肴にしようとした。このとき曹真が激怒したにもかかわらず、さらに王忠は曹洪と共に呉質の悪乗りに便乗して曹真をからかい、曹真の怒りに油を注いだという(呉質伝が引く『呉質別伝』)。[3]

物語中の事跡

小説『三国志演義』でも史実と同様に、劉岱とともに劉備討伐に向かう。この時の曹操の意図は、袁紹を相手にしている間の時間稼ぎ程度であったとなっている。王忠は、関羽との戦いに敗れ捕えられてしまう。しかし劉備からは礼遇され、同じく捕えられた劉岱と共に、曹操への斡旋を依頼されている。帰還後、王忠と劉岱は曹操に敗戦の咎を問われ処刑されそうになる。しかし、孔融の取り成しで助命されている。

なお史実では、王忠らはあくまで勝利を得られなかった(原文「不克」)とあるのみで、劉備に捕虜とされたわけではない。

脚注

  1. ^ 『開元占經』
  2. ^ 渡邉義浩 「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 2022-02-04閲覧
  3. ^ 王粲伝』によれば、王忠は曹洪と共に呉質の無礼を難詰しており、『呉質別伝』の記述と逆になっている。

参考文献

  • 三国志』魏書1武帝紀 魏書6袁紹伝 魏書21付・呉質伝 蜀書2先主伝
  • 三国演義

王忠(演:李士才)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:33 UTC 版)

鄭和下西洋」の記事における「王忠(演:士才)」の解説

朱元璋建文帝永楽帝三代側近として仕えた宦官建文帝に対して厚い忠義誓っており、燕王軍が南京攻めた際は、朱元璋残した遺詔明かし機転利かせて建文帝逃亡助け、その命を救った建文帝逃がした後、自身長江身投げし自殺を図るが失敗その後皇宮戻り以後永楽帝側近宦官となる。当初永楽帝のことを憎み密かに毒殺しようとしていたが、次第永楽帝功績認め永楽帝への忠義心を深めていった。永楽帝死後即位した洪熙帝が、永楽帝国策停止すると、激しく諫言行い服毒自殺遂げた

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