壱岐島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した。 この戦闘で薩摩の御家人・島津長久や比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄や舩原三郎らが奮戦し活躍した。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている。 7月2日、肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。 龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた。一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている。 壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した知らせに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している。 京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(7月12日条)によると、壱岐島の戦いにより(元軍が壱岐島を放棄したため)元軍が退散し撤退したという風聞が日本側にあったことが確認できる。
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