志賀島の戦いとは? わかりやすく解説

志賀島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「志賀島の戦い」の解説

6月6日博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍陸繋島である志賀島上陸し、これを占領志賀島周辺軍船停泊地とした。 東路軍の管軍上百戸張成墓碑によると、この日の夜半日本軍一部武士たちが東路軍軍船夜襲行い張成らは軍船から応戦した。やがて夜が明けると日本軍引き揚げていった6月8日午前10時頃、日本軍軍勢二手分け海路海の中道伝い陸路両面から志賀島東路軍に対して総攻撃敢行した。 海の中道通って陸路から東路軍攻めいった日本軍に対して張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦志賀島東路軍日本軍300人ほどの損害与えたが、日本軍の攻勢抗しきれず潰走する。東路軍司令官東征元帥洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた。しかし、管軍万戸の王某の軍勢洪茶丘追撃していた日本軍側面攻撃仕掛け日本兵50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍退き洪茶丘僅かに逃れることができたという。 海路から東路軍攻撃した伊予御家人河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀持って元軍船斬り込み、元軍将校生け捕るという手柄立てたまた、海上からの攻撃には肥後御家人竹崎季長肥前御家人福田兼重・福田兼光父子らも参加し活躍した6月9日東路軍張成らは防御徹して陣を固め攻め寄せる日本軍対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘日本軍勝利し東路軍敗戦重ねた。 この志賀島の戦いで大敗した東路軍志賀島放棄して壱岐島へと後退し江南軍到着を待つことにした。

※この「志賀島の戦い」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「志賀島の戦い」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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