大友頼泰とは? わかりやすく解説

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大友頼泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/27 08:50 UTC 版)

大友 頼泰(おおとも よりやす[1][8])は鎌倉時代中期の武将御家人大友氏3代当主。


  1. ^ a b c d e f g h i 安田、1990年、P.104 「大友頼泰」の項(執筆:外山幹夫)より。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 系図纂要』・『寛政重修諸家譜』・『群書系図部集 四』・『入江文書』等の「大友系図」に掲載あり。
  3. ^ 大友頼泰の墓(外部リンク)、戦国戸次氏年表 - 大友頼泰(外部リンク)より。
  4. ^ 尊卑分脈』(黒板勝美、国史大系編修会(編)『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第二篇』(吉川弘文館)P.389)より。
  5. ^ a b c 「大友系図」(『群書系図部集 四』P.350・358・365・372)より。
  6. ^ 安田、1990年、P.554 「北条宗方」の項、P.555 「北条宗頼」の項(いずれも執筆は奥富敬之)より。
  7. ^ 安田、1990年、P.103。
  8. ^ 寛政重修諸家譜』より。
  9. ^ 『筑後鷹尾家文書』。『鎌倉遺文』5981号。
  10. ^ 『筑後鷹尾家文書』。『鎌倉遺文』5983号。
  11. ^ 『筑後大友文書』。『鎌倉遺文』5984号。
  12. ^ 『豊後詫磨文書』。『鎌倉遺文』7604号。
  13. ^ 建長8年8月11日 「関東下知状案」(『筑後大友文書』、『鎌倉遺文』8020号)。
  14. ^ 「大友系図」(『群書系図部集 四』P.361)の頼泰の付記に「姓改平氏 出羽守 北條時賴賜一字」とある。これは頼泰が時頼の猶子となって平姓と「頼」の一字を与えられたことによるものとされている(渡辺、1982年、P.8・11 脚注(12))。大友氏が平姓を称したのはこの頼泰の時であり、頼泰が平姓を称していたことは、建長8年(1256年)9月12日の安堵状を初見とし、正嘉2年(1258年4月5日の下知状案でも確認することができる(渡辺、1982年、P.7-8)。尚、大友氏はのちに氏泰・氏宗・氏時が揃って足利尊氏の猶子となって源姓と「氏」の一字を与えられる形で改姓している(渡辺、1982年、P.8-9)。
  15. ^ 「大友系図」(『群書系図部集 四』P.372)より。
  16. ^ 外山幹夫によれば、頼泰の移住は自主的なものであったとしており(外山幹夫 「鎌倉御家人の移住について -大友氏を中心として-」(所収:「日本歴史」256号))、芥川龍男も著書においてこれを支持している(芥川、1972年、P.26-33)。


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