志賀城包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 14:42 UTC 版)
大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。志賀城は上野国との国境に近く、碓氷峠を通じて関東管領上杉氏からの支援が期待でき、また笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。 天文16年(1547年)閏7月、晴信は大井三河守を先手として甲府を出陣。同月24日(9月9日)に城の包囲を開始した。翌25日(9月10日)、金堀衆が城の水の手を断つことに成功。志賀城は窮地に陥った。
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