鎌倉幕府における引付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 02:27 UTC 版)
いっぽう武家においては、鎌倉幕府ははじめ評定衆がすべての行政事務を管轄していたが、これも裁判の迅速化のため、13世紀半ばに執権北条時頼が設置した引付衆が訴訟処理の主体となっていく。引付は評定衆の下におかれ、一番から三番まで(後には五番まで増加)の部局に分けられ、各局の長官である引付頭人と、その下で合議する数人の引付衆、訴訟事務を行う奉行が置かれた。この機構は雑訴決断所の組織に大きな影響を与える。ただし、鎌倉時代末期には引付衆の多くを北条氏一門の若年者が占め、評定衆に至るまでの出世コースの腰掛けのような地位となり、訴訟審理機関としては形骸化した。このような状況においては、増大し続ける雑訴沙汰を処理することはできず、御家人・非御家人などの間に不満が高まった。 鎌倉幕府打倒に乗り出した後醍醐天皇に武士層からの賛同者も多かった一因には、これらの層が停滞した訴訟や理不尽な審理など、既存の秩序に不満を抱いていたこともある。そのような経緯を経て幕府を倒し新たに成立した後醍醐天皇の建武政権も、必然的にこれらの訴訟を迅速に解決する機関の設置が求められていた。
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