幕府についての議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年(明治20年)以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。また、同じ歴史学者の岩田慎平は鎌倉幕府は全国の武士は統率できても、全国の統治は完成できなかったことを指摘し、特に皇位継承への関与が受動的(朝廷からの軍事的挑戦を受けた結果、もしくは朝廷からの要請に基づく結果)であることを指摘し、「政権」としては平氏政権よりも後退して、かつ軍事・警察面以外の多くの分野で未だに朝廷が国政の主導権を握っている以上、鎌倉幕府を本当に武家「政権」と呼べるのか再検討すべきではないか?と提言している。 現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。 21世紀に入って学校教育の場で、鎌倉幕府の成立年が建久3年(1192年)から文治元年(1185年)に変更されるようになったが、第二次世界大戦前に通説扱いされていたのは文治元年(1185年)説であり、『大日本史料』や『史料綜覧』も同年以降が「鎌倉幕府の成立 = 鎌倉時代の始まり」とみなされ、『平安遺文』と『鎌倉遺文』の区切りも同年が採用されている。その一方で、文治の勅許が守護・地頭の任命を許可したものとする見方を否定する研究者もおり、その立場からは同勅許を前提とした文治元年(1185年)説は成立しないとされている。同様に他の説に関しても異論が出されている(日本国総守護地頭の実在性など)。歴史学者の川合康は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」として論じることは困難であると指摘している。これらの議論を踏まえ、帝国書院などの検定教科書においては、鎌倉幕府の成立は段階を踏んで整えられ、成立年についても1192年に「名実ともに『完成した』」という表記を採用している。
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