幕府における活動
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その後『吾妻鏡』には「足利三郎利氏」の名で度々登場する。そのうち、建長8年/康元元年(1256年)8月11日条には、母方の伯父で5代執権の北条時頼の長男・宝寿(のちの北条時輔)の元服の際の烏帽子親を務めたことが記されており、以下の通りである。 建長八年八月小十一日己巳。雨降。相州御息被加首服。号相摸三郎時利、後改時輔、加冠足利三郎利氏、後改頼氏 将軍(当時は宗尊親王)或いは北条氏(北条時頼)からの指名を受けて加冠役(烏帽子親)を勤めたものとされる。当時頼氏は利氏と名乗っており、宝寿はその偏諱(「利」の1字)を受けて「時利」と名乗ったとみられるが、のちに両者とも改名している。利氏の改名時期については、その後8月16日条では「足利三郎利氏」となっているが、一週間後の8月23日条では「足利次郎兼氏 同三郎頼氏」と名前が変わっていることから、恐らくはこの時期に利氏から頼氏への改名が行われたとみられる。。「頼」の字は当時の執権(同年11月に辞任)であった時頼の偏諱であり、足利氏の嫡子が家氏から利氏に替わったのに伴い、時頼が甥でもある利氏との関係を緊密にする最も簡単な方法として、自身の一字を下賜して利氏を改名させるに至ったとされる。 『吾妻鏡』においては、その後「足利三郎頼氏」としては、正嘉元年(1257年)12月29日条、将軍・宗尊親王の御所の御格子番衆に加わった記事を最後に登場しなくなるが、その後弘長元年(1261年)には同名を持った「治部権大輔頼氏」が現れ、『尊卑分脉』の頼氏の項に「治部権大輔」、『続群書類従』所収「足利系図」や『系図纂要』の頼氏の項に「治部大輔」と載せていることから足利頼氏と同人であるとされる。『吾妻鏡』にはこの間の頼氏の活動の様子が記されていないが、次に挙げる正嘉3年/正元元年(1259年)当時の2つの史料から、頼氏に関する動向を読み取ることができる。 京都大番役事、自明正月一日至同六月晦日、随番頭足利三郎之催、可令勤仕□□、依仰執達如件、 (之状) 正嘉三年二月廿日 武蔵守(花押) 相模守(花押) 深堀太郎殿 (『肥前深堀家文書』より) この書状は、2月20日に6代執権北条長時と連署北条政村が「深堀太郎」こと深堀時光に対し、明くる年(正元2年/文応元年、1260年)の1月1日から6月30日まで、番頭「足利三郎」の下で京都大番役を勤仕するよう命じたものであり、この「足利三郎」はそれまで『吾妻鏡』に登場していた頼氏に比定される。従って、この段階で頼氏が上総国守護として京都大番役の番頭を務めていたことが確認できる。 吉田経俊の日記である『経俊卿記』の同年4月17日条には次のような記事が見られる。 従五位下源 頼氏 平 業時 同 義政 藤原行氏 検非違使如元 平 時基 惟宗淳俊 同 □親 この除目において従五位下となった者のうち、「平業時、平義政、藤原行氏」がそれぞれ普音寺業時、塩田義政、二階堂行氏(二階堂基行の子)に比定できることから、「源頼氏」も鎌倉御家人であった可能性は高い。この当時源氏で「頼氏」を名乗っていたのは足利頼氏の他に、世良田頼氏と佐々木頼氏の2名が確認できるが、清和源氏流新田氏一門の世良田頼氏は寛元2年(1244年)に三河守在任が確認でき、宇多源氏流佐々木氏一門京極氏信の長男(宗綱の兄)である佐々木頼氏については、『吾妻鏡』正嘉元年(1257年)12月29日条の段階では「足利三郎頼氏」とは別に「対馬太郎頼氏」とあるように無官であり、のち『吾妻鏡』文応元年(1260年)11月22日条に「対馬太郎左衛門尉頼氏」として見えるが、後者の「左衛門尉」は六位相当であった可能性が高い。よって、当時20歳であった足利頼氏がこの除目において従五位下・治部権大輔に叙任された可能性が高いとされる。そして、翌正元2年/文応元年(1260年)には「治部権大輔」の名で再び『吾妻鏡』に現れるのである。 尚、ここまでに『吾妻鏡』には度々登場し、その活動の多くは鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王の近臣としての行為であったことが窺える。但し、この当時実権は得宗・北条時頼の手にあり、後の傾向を考えればこれは北条氏が擁立した将軍に近侍することによって、得宗・時頼への忠誠を示すための行為であったと考えられる。
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