幕府での職歴
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※日付=旧暦 嘉永6年(1853年)10月8日、小姓組番頭白須甲斐守政偆組学問所出役から徒頭(二番組)に異動。修理を称す。 嘉永7年(1854年)1月22日、徒頭から目付・勝手掛・海防掛に異動。 安政2年(1855年)1月18日、下田へ出張。 12月16日、従五位下伊賀守に叙任される。 安政4年(1857年)4月15日、長崎へ出張。 9月13日、老中に松平伊賀守忠固が就任することにより、伊賀守から肥後守に転任。 安政5年(1858年)1月8日、老中堀田正睦の上洛に伴い副役と就る(同役に勘定奉行川路聖謨) 5月16日、琉球使節江戸参府に伴い、御用取扱兼帯。 7月8日、目付から外国奉行に異動。 9月5日、外国奉行から作事奉行に異動。 12月20日、宗門改を加役(兼帯)。 安政6年(1859年)8月27日、作事奉行御役御免。
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幕府での職歴
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文政6年3月29日(1823年5月9日)、小普請組本多大和守繁文支配衆より中奥番に異動。石高2500石。 天保5年6月8日(1834年7月14日)、中奥番より徒頭に異動。 天保7年8月4日(1836年9月14日)、徒頭より江戸城西丸(内大臣右近衛大将徳川家慶)附目付に異動。 天保9年4月12日(1838年5月5日)、西丸目付より目付に異動。勝手掛兼帯。 天保12年12月28日(1842年2月8日)、目付より江戸南町奉行に異動。在職中、従五位下甲斐守に叙任。 天保14年5月4日(1843年6月1日)、500石を加増。 6月11日(7月8日)、印旛沼古堀普請御用兼帯。 8月13日(7月10日)、勘定奉行・勝手方を兼帯。 8月15日(7月12日)、重ねて印旛沼古堀普請御用兼帯。 10月17日(12月8日)、勘定奉行兼帯を解く。 天保15年9月6日(1844年10月17日)、南町奉行を辞す。 弘化2年2月22日(1845年3月29日)、肥後人吉藩主相良長福のもとにお預け処分。 10月3日(11月2日)、讃岐丸亀藩主京極高朗のもとに永のお預け処分。
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