江戸上り
(琉球使節 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/08 10:31 UTC 版)
江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節のこと。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。江戸に「上る(のぼる)」という表現は琉球が下で江戸が上であるという前提に立つため、近年は、史料で多く見られる「江戸立」(えどだち。江戸立ち、とも書く)という表記が広まりつつある[1]。
- ^ 以下、上原兼善「Ⅲ 寛永期の琉球使節」(『日本近世生活絵引 : 琉球人行列と江戸編』、神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター、2020年)より引用。引用開始「謝恩(恩謝)使・慶賀(賀慶)使が島津藩主に率いられて江戸に参向することは古くから「江戸上(のぼ)り」といい慣わされてきたが、史料上そのように表記した例はあまり見られない。むしろ多くみられるのは「江戸立(だち)」である。琉球使節が江戸に行くことを「江戸上り」とよんだのは、鹿児島に行くことを「上国」と称したことに由来するのではと思うが、事実関係については今後詰めていく必要がある。ともかくここでは史料上の表記にしたがって「江戸立」の表現を使うことにする。」引用終了
- ^ 「朝忠」から、後に「朝義」にあらためる。
- ^ 「朝陽」から、後に「朝祥」にあらためる。
- ^ 「朝敕」から、後に「朝英」にあらためる。
- ^ 往路、鹿児島にて死去。急遽、普天間親雲上朝典が「替え玉」となり豊見城王子役を務めた。
琉球使節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 20:47 UTC 版)
詳細は「江戸上り」を参照 琉球国王が江戸に送った使節のうち、将軍の代替わりごとに送ったものを「慶賀使」、国王の即位の際に送ったものを「謝恩使」と称している。両者はまとめて「江戸上り」とも呼ばれ、1634年(寛永11年)から1850年(嘉永3年)まで合計18回にわたって行われた。なお、江戸への使節派遣の一方で琉球国王は清国に対しても進貢船を派遣している。
※この「琉球使節」の解説は、「通信国」の解説の一部です。
「琉球使節」を含む「通信国」の記事については、「通信国」の概要を参照ください。
- 琉球使節のページへのリンク