明の滅亡と琉球使節とは? わかりやすく解説

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明の滅亡と琉球使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「明の滅亡と琉球使節」の解説

1644年2月尚賢進貢使金応元らを明に派遣する尚賢はまだ冊封受けておらず、この時の進貢は請封、そして前述のような経過停止され白糸貿易再開嘆願兼ねていた。しかし同年3月李自成率い農民軍北京入城し崇禎帝自殺して明は滅亡する崇禎帝死去知った金応元らは、琉球本国との協議行わずに、独自の判断南京即位した弘光帝ところへ向かった即位したばかりの弘光帝琉球からの使節歓迎した琉球側の要望であった白糸貿易再開認め冊封使派遣決定した。また弘光帝1644年末に、崇禎帝死去と自らの即位知らせ使者琉球送った知らせ受けた琉球側は早速、亡くなった崇禎帝弔う進香使と弘光帝即位を祝う慶賀使として毛大用らを派遣する。 ところが肝心弘光帝南京政権あっけなく瓦解する1644年5月には山海関超えた清軍が北京入城し、翌1645年5月には清軍は南京攻撃し陥落させた。南京政権琉球への冊封使派遣実現しなかった。弘光帝南京政権瓦解後、福州隆武帝即位する。毛大用らは隆武帝ところへ赴くことにした。隆武帝弘光帝同じく生糸貿易再開認め、また自らの即位知らせ使者琉球送った1646年3月琉球側は隆武帝即位を祝う慶賀使として毛泰久金正春らを派遣する任務終えた泰久金正春らは福州から琉球への帰途についた。しかし中国沿岸海賊襲われてしまい、命からがら福州逃げ戻った。すると1646年9月、清軍の攻撃により福州陥落し隆武帝政権崩壊していた。つまり琉球使節は清軍が占領している福州戻ったことになる。土通事中国人琉球語通訳)謝必振らの助言を受け、毛泰久金正春らは本国指示待たず清軍に投降することになった

※この「明の滅亡と琉球使節」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「明の滅亡と琉球使節」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

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