明の滅亡と琉球使節
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「明の滅亡と琉球使節」の解説
1644年2月、尚賢は進貢使金応元らを明に派遣する。尚賢はまだ冊封を受けておらず、この時の進貢は請封、そして前述のような経過で停止された白糸貿易の再開の嘆願を兼ねていた。しかし同年3月、李自成率いる農民軍が北京に入城し、崇禎帝は自殺して明は滅亡する。崇禎帝の死去を知った金応元らは、琉球本国との協議を行わずに、独自の判断で南京で即位した弘光帝のところへと向かった。 即位したばかりの弘光帝は琉球からの使節を歓迎した。琉球側の要望であった白糸貿易の再開を認め、冊封使の派遣も決定した。また弘光帝は1644年末に、崇禎帝の死去と自らの即位を知らせる使者を琉球に送った。知らせを受けた琉球側は早速、亡くなった崇禎帝を弔う進香使と弘光帝の即位を祝う慶賀使として毛大用らを派遣する。 ところが肝心の弘光帝の南京政権はあっけなく瓦解する。1644年5月には山海関を超えた清軍が北京に入城し、翌1645年5月には清軍は南京を攻撃し、陥落させた。南京政権の琉球への冊封使派遣は実現しなかった。弘光帝の南京政権の瓦解後、福州で隆武帝が即位する。毛大用らは隆武帝のところへ赴くことにした。隆武帝は弘光帝と同じく生糸貿易の再開を認め、また自らの即位を知らせる使者を琉球に送った。1646年3月、琉球側は隆武帝の即位を祝う慶賀使として毛泰久、金正春らを派遣する。 任務を終えた毛泰久、金正春らは福州から琉球への帰途についた。しかし中国沿岸で海賊に襲われてしまい、命からがら福州に逃げ戻った。すると1646年9月、清軍の攻撃により福州は陥落して隆武帝の政権は崩壊していた。つまり琉球使節は清軍が占領している福州に戻ったことになる。土通事(中国人の琉球語通訳)謝必振らの助言を受け、毛泰久、金正春らは本国の指示を待たず清軍に投降することになった。
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