明への恭順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:12 UTC 版)
遡って黎朝の昭宗の治世において既に、昭宗の母の鄭氏鸞は中国の明に対して、莫登庸による国主への圧迫を訴えていた。即位したばかりの嘉靖帝は鎮圧軍を派遣したものの、直後に発生した龍州での反乱の鎮圧のため引き上げてしまった。また1525年には昭宗自らが明への朝貢の使節を派遣しようとしていたが、莫登庸はこれを阻止していた。翌年には莫登庸は欽州の判官であった唐清という人物に賄賂を贈り、自らの傀儡であった恭皇への冊封を要求したが、唐清は投獄されたため計画は水の泡となっていた。 1528年、莫登庸は明への使者を派遣し、黎朝の子孫は断絶しており皇位の継承者は存在しないと報告し、また群臣の推戴と庶民の支持を十分に得ているとして、安南王への冊封を要求した。これに対し嘉靖帝は密かに人を派遣して現地の調査を命じたが、その結果莫登庸による簒奪の経緯と、各地の黎朝の旧皇族たちの存命を確認したため、莫朝の使者を痛烈に罵倒した。莫登庸はこれを多いに恐れ、多額の貢納金を支払う事でなんとか明朝との関係を維持する事ができた。またこの頃、黎朝の遺臣たちのうち明に亡命した人物の多くが、明朝の法廷に対し黎朝の復興の支援を求めていたが、莫登庸は明の当局に賄賂を贈ることでこれを妨害した。 1533年、黎朝の復興を掲げて皇帝を称した黎寧は、明に使者を派遣して莫登庸による簒奪の所業を上奏し、嘉靖帝は莫登庸の十の罪を並べ立て、莫朝への出兵準備を開始した。明軍は莫登庸・莫登瀛父子の首に懸賞金を掛けると共に、投降すればその罪を許すと宣言した。これを知った莫登庸は明に使者を派遣して恭順の意を示し、財宝の貢納や領土の割譲を行う事によって、なんとか明軍の出兵を押し留める事ができた。
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