明らかな無嗣にもかかわらず改易を回避した例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:23 UTC 版)
「末期養子」の記事における「明らかな無嗣にもかかわらず改易を回避した例」の解説
上述のように幕藩体制が安定して以降、幕府は次第に改易を控えるようになっていく。無嗣で藩主が死去しても、由緒のある家であれば事情を考慮して縁者に相続が許されることもあった。 親藩の例御三卿は独立の「家」でなく徳川将軍家の家族・身内として扱われており、当主が不在のままでも家の存続が許されていた(明屋敷という)。この場合、その「家」は名目上の家臣団(幕臣の出向による)と前当主の正室(存在していれば)から構成されることになる。 御三家や御家門などの重要な家は、藩主が無嗣で死去しても適当な血筋の者に跡を継がせることで存続が許された。尾張徳川家(徳川五郎太→継友→宗春)、越智松平家(松平武揚→武成)などの例が挙げられる。 米沢藩(上杉家)の例寛文4年(1664年)閏5月7日、藩主上杉綱勝は実子もなく、継嗣も指名しないまま急死した。綱勝の岳父である保科正之の計らいにより、事前に保科が届け出を受け取っていたが手元にとどめていたことにして、綱勝の妹富子と吉良義央の長男で前年に生まれたばかりの三之助(上杉綱憲)を末期養子とすることで上杉家の存続が許された。ただし、所領は30万石から15万石に半減となった。 古河藩(土井家)の例延宝3年(1675年)閏4月29日、藩主土井利久は10歳で急死した。祖父の利勝の功績などが考慮され、分家を立てていて本家相続からは外されていた兄の下妻藩主土井利益に本家の相続が許された。ただし、旧下妻藩領1万石と、本家所領10万石のうち6万石を相続、合わせて7万石という減封になった。 郡上藩(遠藤家)の例元禄6年(1693年)3月30日、藩主遠藤常久が7歳で急死した。同藩で続いていた御家騒動も絡み、改易は避けられない状況となった。ところが幕府より、藩祖・遠藤慶隆の関ヶ原の戦いにおける戦功を考慮した特例として、旗本白須正休の長男・数馬を養子に迎えることを条件に、藩の存続を認める指示が出された。数馬は遠藤家の姻族である大垣新田藩主・戸田氏成の養子となった上で、改めて常久の養嗣子(転養子)となり、遠藤胤親と称して家督を相続した。遠藤家は近江三上藩に減移封されたものの、改易は免れた。数馬の母は将軍徳川綱吉寵愛の側室・お伝の方の妹であり、綱吉がお伝の方のために甥を取り立てたものであった。
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