明の衰退と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
15世紀後期以降、北方のモンゴル高原ではタタール(北元)の勢力が再び勢力を巻き返し、1449年には皇帝・正統帝がオイラトへの遠征をする途上、軍に捕虜にされるという、いわゆる「土木の変」が起き、遂に北京が包囲される、と言う事件が起こる。その時は、重臣于謙の機転によって、見事オイラト軍を撃退して北京を守り抜いたが、この一連の事件によっていよいよ明は衰退を始めた。また、海禁政策に反対する中国商人たちが「倭寇」として沿岸部を荒らして回り、北からは新たに勢力を伸ばした韃靼のアルタン・ハーンが侵攻し、そんな時でも皇帝・嘉靖帝は淫乱にふける有様で、明の国力は日が没するように落ちていった。 そんな中、明の皇帝に即位したのは、齢僅か10歳の万暦帝であった。彼は最後の「中興」をした偉大な皇帝ともされる[要出典]一方、「明は崇禎に滅んだのではなく、万暦に滅んだ」ともいわれる通り、暴君とも称された皇帝であった。治世の前半は、有能な官吏たちに支えられて善政を敷き、経済的な繁栄を見出したが、自らの親政が始まると一転、政治への熱意を失い、財政は破綻状態に陥り、そこから明帝国は急激に崩壊を始めたのであった。 万暦帝から4代ほど後の崇禎帝が即位すると間もなく各地での農民反乱が相次ぎ、北方の女真族の後金(後の清帝国)からの圧力も強まった。腐敗した宮廷を改革し、農政に詳しい徐光啓を登用し、悪徳宦官である魏忠賢を自殺に追い込むなど善政を敷こうと政治に熱意を示し、名君であった[要出典]崇禎帝だが、それらの強力な軍事力を持つ外敵にはかなわず、遂に1644年、反乱軍の首謀者の一人・李自成が北京の城内になだれ込み、崇禎帝は紫禁城の背後の煤山(現在の景山公園)で首吊自殺をした。 李自成が北京へなだれ込もうとしたとき、民衆は自ら門を開け、迎え入れたという。 その後、李自成は紫禁城の占領後に「順帝国」の独立を宣言し、太祖帝を名乗った。[要出典]しかし、農民反乱軍に北京を占領されるよりも北方の清に支配されるほうがましである、と考えた山海関の守備将軍・呉三桂は、抗争中であった清の太宗・ホンタイジとその軍勢を万里の長城内に招き入れた。この軍勢に恐れをなした[疑問点 – ノート]李自成は逃げ出し、後に殺された。 その後、南方で抵抗を続ける明の残党(南明帝国)との抗争が始まった。
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