明の海禁と朝貢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
明が成立すると海禁の政策をとり、私的な貿易を取り締まった。海禁は大きな反発を呼び、倭寇と呼ばれる集団が増加した。倭寇は日本、朝鮮、中国の沿海部の出身者を中心としており、対馬、壱岐、松浦、済州島、舟山列島を根拠地とした。倭寇は密貿易や海賊を行い、売買のために奴隷を捕獲する者もあった。倭寇対策をめぐって室町幕府と李氏朝鮮のあいだで交わされた朝鮮通信使は、のちの江戸幕府では数少ない正式な外交使節にもなった。密貿易の増加にともない、それまで内陸で活動をしていた徽州商人が海上貿易に参加するようになり、博多や平戸でも取り引きをする王直らの登場につながった。 明は海禁の一方で、永楽帝の時代に冊封体制の拡大を計画して、鄭和の指揮のもとで西方への航海が行われた。鄭和の大航海(英語版)は、『明史』によれば「西洋下り」とも呼ばれ、1405年から1433年にかけて7回に渡って行われ、大艦隊がインド洋を横断して東アフリカまで到達した。朝貢国は非関税で明と貿易ができたが、回賜の増加は明の財政を圧迫するとして批判もあった。 明の朝貢において優遇されたのは、沖縄の琉球王国だった。1383年に明は琉球に大型船を提供して朝貢が頻繁になり、華人が琉球に移住して久米三十六姓と呼ばれ、朝貢は華人たちが担当した。久米三十六姓の人々が住む場所は大明街と呼ばれ、福建には滞在用の琉球館が建設された。琉球には朝貢の回数制限がなく、一国で複数の朝貢主体が認められるという特例もあった。これは倭寇の対策として琉球の貿易を活発にして、民間貿易の受け皿にするという明の政策が関わっていた。琉球は小型の馬と、硫黄鳥島の硫黄を送り、そのほかにコショウや蘇芳を東南アジアのマラッカ王国などから調達して送った。琉球は他の朝貢国とも貿易を行い、朝鮮とは高麗の時代に交流が始まり、日本からは博多や堺の民間商人も訪れた。琉球の朝貢は、明の時代から400年以上続いた。
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