明の数学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:34 UTC 版)
元王朝の転覆後、中国はモンゴルが好む知識を疑わしく感じるようになった。官吏は数学や物理学を避けるようになり、植物学および薬理学を支持した。科挙にはほとんど数学が含まれておらず、そのことが直近の発展を妨げていた。Martzloffは次のように書いている。 16世紀末に、中国人自身が知っている中国の独自数学はそろばんの計算以上のものがほぼ何もなかった、一方で17世紀と18世紀にヨーロッパ科学の舞台における革命的進歩には比類するものがなかった。さらにこの同時期には、中国人自身が断片的な知識しか持っていなかったため、より遠い過去に起こったことを誰も伝えることができなかった。中国自体としては、18世紀最後の四半世紀以前に大規模な独自発展の数学が再発見されなかったことを忘れるべきではない。 明朝の数学を避ける方針に呼応して、学者らは数学にあまり注意を払わなかった。顧応祥や唐順之などの優れた数学者は天元術を知らなかったようである。それらを口頭説明する対話者がいないことで、そのテキストが急速に理解できなくなってしまった。さらに悪いことに、ほとんどの問題がもっと基本的な方法で解決できた。そのため平均的な学者にとって天元術は数秘術のように思えた。Wu Jingが以前の王朝のすべての数学的作品を『九章算術』注釈本にまとめたとき、彼は天元術と増乗開平法(ホーナー法)を省いてしまった。 代わりに、数学的進歩は計算道具に集中するようになった。15世紀に、そろばんは算盤(さんばん)の形状になった。速くて正確、使いやすくて持ち運びが簡単な計算法として、算木を急速に上回った。そろばんによる計算の「珠算」は、複数の新しい作品に影響を与えた。1592年に程大位によって出版された17巻の著作『算法統宗』は、300年以上にわたって使用され続けた。鄭恭王朱厚烷の世子である朱載堉は、2から25の平方根および立方根を正確に計算するため81桁のそろばんを使用し、この精度が平均律法の開発を可能にした。 算木からそろばんへの切り替えにより計算時間の短縮ができるようになったが、それがまた中国数学の停滞と衰退につながった可能性がある。 算盤上の算木数字のパターン豊富な配置は、分数のたすき掛け原則および線形方程式を解く方法など、数学における多くの中国の発明を刺激した。同様に、日本の数学者たちは行列の概念の定義で算木数字の配置に影響を受けた。そろばんのための演算法は、同様の概念上の進歩にはつながらなかった。 16世紀後半、マテオ・リッチは宮廷における地位を確立するため西洋の科学作品を発表することを決めた。徐光啓の助けを借りて、彼は古典的な仏教テキストを教えるために使うのと同じ技術を使用してユークリッドの『原論』を翻訳することに成功した。彼の前例に続いて、他の宣教師が中国の伝統では無視されていた特別な関数(三角法と対数)に関する西洋の著作を翻訳した。しかしながら、同時代の学者たちは問題を解くのとは対照的に(西洋の著作が)証明に重点を置いていることに気づき、大半の者が古典テキストだけで研究を続けていた。
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