明の優遇政策の終了と朝貢の減少
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「明の優遇政策の終了と朝貢の減少」の解説
14世紀末から15世紀半ばにかけて、琉球は明からの船舶の下賜を受け、しかも事実上無制限に朝貢を行うことが認められていた。しかしこのような恵まれた環境は長続きしなかった。1430年代まで琉球は平均して年間3回、朝貢を行っていた。しかし1440年代から朝貢回数は減少し始め、1460年代以降大きく減る。琉球側は一回の朝貢で派遣する船の数を増やすことで事態に対応しようとしたが、琉球の主貢物である硫黄と馬の貢量、そして胡椒、蘇木という琉球国王名義の交易品の量も減っていった。このように15世紀半ば以降、朝貢貿易は衰退していく。 明は1430年代の正統年間には各国に対して朝貢の制限を行う方針を示し始めていた。琉球に対しては正統年間はまだ、倭寇対策の必要性も考慮してか目立った形の朝貢制限は行われなかったが、船舶の下賜数の減少などこれまでのような優遇策からの転換が始まっていた。正統年間以降、明が対琉球政策など海洋政策の優先度が低下していく理由としては、この頃から北方のモンゴル勢力が強力化し、防衛など対モンゴル対策に多額の費用を要するようになったことが挙げられる。特に正統帝がエセン・ハーンの捕虜となる土木の変以降、その傾向は顕著となる。 そして倭寇問題が沈静化していくに従って琉球に対する優遇策の意味も次第に薄れていく中で、1450年代には琉球への船舶下賜が中断され、以後明で購入したものや琉球で建造したこれまでよりも小型の船が使用されるようになった。そして成化年間には琉球の朝貢ルートは他国と同じく福州に固定化される。更に悪いことには1474年には琉球使節が中国で強盗殺人を行うという事件が起きた。この事件をきっかけに琉球の朝貢は、これまでの毎年から2年に一度の二年一貢への変更や一回の進貢使節の人員を150名までに制限するなどの規制が加えられた。この二年一貢は琉球側からの度重なる要請を受けて、いったん1507年に一年一貢に戻されるものの、1522年には再び二年一貢、進貢使節の人員を150名に制限することが定められ、以降その規定が定着した。なお1474年の二年一貢への変更等の決定後には抵抗を見せた琉球側も、1522年の変更後はすんなりと決定を受け入れている。この頃になると朝貢貿易が衰退しており、琉球側としても一年一貢にこだわり続ける必要性が無くなっていた。
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