対琉球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:40 UTC 版)
白石は北方の蝦夷地とともに、南方の琉球に関心を寄せた。白石は正徳元年(1711年)、自ら伏見の薩摩藩邸において、琉球の王子2名と会見している。琉球は国書について、家宣の代から漢文体を採用し書簡の形式も改めた。しかし、「大君」「尊夫人」「貴国」「台聴」などの文字を白石は問題視した。最終的には、琉球の実質的な支配者である薩摩藩主島津吉貴に任せることになり、小さな紛糾で済んだ。
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