対独宥和外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:45 UTC 版)
「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「対独宥和外交」の解説
ドイツでは1933年以来アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を掌握していた。ボールドウィンはナチスの反共主義の面に期待し、ドイツをソ連共産主義の防波堤にすべく対独宥和外交を基本方針とした。それについてボールドウィンは1936年7月28日の保守党議員団との会合で「我々はヒトラーが『我が闘争』の中で述べているごとく、ドイツが東方進出することを希望している。もし彼が東方に進出するならば、私はボルシェヴィキとナチスが戦争を行うのを見たいものである」と語っている。 1936年3月7日のドイツ軍のラインラント進駐をめぐってボールドウィンは、3月19日に訪英中だったフランス外相ピエール・エティエンヌ・フランダン(フランス語版)と秘密会談を行ったが、フランダンが「ヒトラーの野望を阻むには軍事力行使しかない」と主張したのに対し、「イギリスは戦争ができる状態にない」としてフランスの対独強硬外交と関わり合いになるのを断った。 1936年7月に勃発したスペイン内戦をめぐってもボールドウィンは外相イーデンに対して「フランスまたは他の諸国が我らをソ連側に立って参戦させようとするかもしれないが、この企みに乗ってはならない」という訓令を与えた。共産主義とファシズムの戦争はスペインの中に押しとどめ、西ヨーロッパの火災にしないのがボールドウィンの考えであった。
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