対独抗戦から第一次インドシナ戦争
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「ジャン・ラクチュール」の記事における「対独抗戦から第一次インドシナ戦争」の解説
ロンドンに亡命したシャルル・ド・ゴールが1940年6月18日に対独抗戦を呼びかけると、ラクチュールの両親はこれを熱心に支持したが、彼自身はドイツでの強制労働(STO)を逃れるために農家に隠れるなどして、マキに参加したのはノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)の2か月前の1944年4月のことであった。1944年9月にパリ地域でフィリップ・ルクレール将軍が率いる自由フランス軍第2機甲師団の部隊に配属され、部隊がドイツに進軍していた1945年5月8日、ドイツの降伏を知った。 欧州戦の終結後にルクレール将軍が今度はフランス領インドシナを日本軍から解放するために極東への遠征軍を結成すると、ラクチュールはこれに志願したが、従軍記者に任命され、現地でルクレール師団の機関紙『カラヴェル』(「キャラベル船」の意)を刊行することになった。 ラクチュールがマルセイユを発って長い船旅の後サイゴンに着いたのは、日本が降伏文書に調印し(1945年9月2日)、ホー・チ・ミンが率いるベトミンがベトナム民主共和国の樹立を宣言した後のことであった。彼はフランス軍を「解放軍」と呼んだが、そうではなかった。フランス軍内部で独立勢力に対する対応について意見の対立が生じ、ラクチュールは『カラヴェル』紙の刊行を続けながらも、フランス極東学院の東洋学者ポール・ミュス(フランス語版)の助言により、独立して市民向けの反戦新聞『パリ・サイゴン』を創刊した。この新聞はベトナム民族主義者との対話の場となり、ラクチュールはハノイでホー・チ・ミンと彼の側近で軍事戦術家のヴォー・グエン・ザップに会う機会を得た。 1946年3月6日、フランスはハノイ暫定協定(フランス語版)の締結により、フランス連合の一員としてベトナム共和国の独立を認めたが、4月13日の軍事協定によりさらに兵力を配置し、12月19日、第一次インドシナ戦争が勃発。ラクチュールはベトナム滞在14か月にして本土に帰還することになった。
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