対独抗戦から第一次インドシナ戦争とは? わかりやすく解説

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対独抗戦から第一次インドシナ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 03:11 UTC 版)

ジャン・ラクチュール」の記事における「対独抗戦から第一次インドシナ戦争」の解説

ロンドン亡命したシャルル・ド・ゴール1940年6月18日に対独抗戦呼びかけると、ラクチュールの両親はこれを熱心に支持したが、彼自身ドイツでの強制労働STO)を逃れるために農家隠れるなどして、マキ参加したのはノルマンディー上陸作戦1944年6月6日)の2か月前の1944年4月のことであった1944年9月パリ地域フィリップ・ルクレール将軍率い自由フランス軍第2機甲師団部隊配属され部隊ドイツ進軍していた1945年5月8日ドイツの降伏知った欧州戦の終結後ルクレール将軍今度フランス領インドシナ日本軍から解放するために極東へ遠征軍結成すると、ラクチュールはこれに志願したが、従軍記者任命され現地ルクレール師団機関紙『カラヴェル』(「キャラベル船」の意)を刊行することになった。 ラクチュールがマルセイユ発って長い船旅の後サイゴン着いたのは、日本降伏文書調印し1945年9月2日)、ホー・チ・ミン率いベトミンベトナム民主共和国樹立宣言した後のことであった。彼はフランス軍を「解放軍」と呼んだが、そうではなかった。フランス軍内部独立勢力対す対応について意見の対立生じ、ラクチュールは『カラヴェル』紙の刊行続けながらも、フランス極東学院東洋学者ポール・ミュス(フランス語版)の助言により、独立して市民向けの反戦新聞『パリ・サイゴン』を創刊した。この新聞ベトナム民族主義者との対話の場となり、ラクチュールはハノイホー・チ・ミン彼の側近軍事戦術家のヴォー・グエン・ザップに会う機会得た1946年3月6日フランスハノイ暫定協定フランス語版)の締結により、フランス連合一員としてベトナム共和国独立認めたが、4月13日軍事協定によりさらに兵力配置し12月19日第一次インドシナ戦争勃発。ラクチュールはベトナム滞在14か月にして本土帰還することになった

※この「対独抗戦から第一次インドシナ戦争」の解説は、「ジャン・ラクチュール」の解説の一部です。
「対独抗戦から第一次インドシナ戦争」を含む「ジャン・ラクチュール」の記事については、「ジャン・ラクチュール」の概要を参照ください。

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