対独融和政策への反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「対独融和政策への反対」の解説
1937年5月にボールドウィン首相は政界引退し、代わってネヴィル・チェンバレンが保守党党首・首相に就任した。チェンバレンもボールドウィンと同様「閣議の和を乱す危険分子」チャーチルを入閣させる意思はなかった。 1937年中、チャーチルは駐英ドイツ大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップと会見し、東ヨーロッパに対する領有権主張を聞いて、ドイツの領土的野心が強まっているとの確信を強めた。実際この頃からヒトラーはかつてドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が領有していた領土のうちドイツ系住民が多数派の地域の割譲を要求するようになっていた。1938年3月にはドイツ民族国家のオーストリアがドイツに併合された。チェンバレンは許容範囲内と判断し無視したが、チャーチルはヒトラーのオーストリア併合計画を批判する演説を行った。 つづいてヒトラーは旧オーストリア=ハンガリー帝国領ズデーテン地方(当時はチェコスロバキア領)のドイツへの割譲を要求した。さすがに心配になってきたチェンバレンは1938年9月15日にドイツ・バイエルン州・ベルヒテスガーデンのヒトラーの別荘を訪問し、ヒトラーを直に説得しようとしたが、ヒトラーはズデーテンのドイツ人がいかにチェコスロバキア政府によって酷い弾圧を受けているかをとうとうと語り、逆にチェンバレンを口説き落とした。結局チェンバレンはフランスを説き伏せて、9月29日に英仏独伊の四国首脳によるミュンヘン会談を行い、正式にズデーテンのドイツ領有を認めた。これを聞いたチャーチルは「我々は敗北した」、「これが大英帝国の終焉に繋がらなければよいが」と語ったという。チャーチルとチャーチル派の議員30名ほどはミュンヘン協定に抗議すべくその批准決議に欠席した。 しかしミュンヘン協定もむなしく、1939年3月にはチェコスロバキアの内紛でチェコとスロバキアが分離したのを利用してドイツはチェコを保護領とした(チェコ併合)。これにより政界も世論も融和政策は失敗だったとの認識が強まった。ここに至って労働党は英仏ソ同盟を主張、反共主義者のチャーチルも勢力均衡論から賛成した。 だがチェンバレン首相はソ連との同盟には否定的だった。彼はソ連をイデオロギー的に嫌っていたし、ソ連は英仏とドイツを潰し合わせようとしているという疑念を強く持っていた。それにソ連共産党の軍隊である赤軍はスターリンの大粛清によってトゥハチェフスキー元帥をはじめとする高級将校のほとんどが抹殺されていたため、同盟を結んだところでまともな戦力として勘定できないと考えられた。 一方スターリンも独ソを反目させようという英仏の陰謀を警戒しており、ドイツと協定を結んでおく必要性を感じていた。ヒトラーもビスマルク以来のドイツの二正面作戦回避戦略であるロシアとの接近を考えていた。こうして利害が一致したスターリンとヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約の秘密協定において東ヨーロッパを独ソ両国で分割支配することが取り決められた。イデオロギー上相いれないはずの両国の握手に世界は驚いたが、チャーチルはスターリン支配下のソ連はレーニン時代に比べて、共産主義がお題目化しており、他の列強と大差がなくなってきていると考えていたため、さほど驚かなかったという。それよりみすみすソ連をドイツにくれてやったチェンバレンの外交センスの無さに批判的だった。
※この「対独融和政策への反対」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「対独融和政策への反対」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。
- 対独融和政策への反対のページへのリンク