対独協力行為を巡る論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 07:48 UTC 版)
「ココ・シャネル」の記事における「対独協力行為を巡る論争」の解説
第二次世界大戦中、ドイツに占領されたフランスでは、いわゆるレジスタンスと呼ばれる抵抗運動が組織される一方、ドイツ当局に協力的な姿勢を取るフランス人もいた。またより多くの人々は妥協的な姿勢で生活を守った。そして、恋愛であれ他の形態であれ、進駐していたドイツ兵と交際するフランス人女性も数多くいた。シャネルの行動もまたこうしたフランス人が示した反応の一形態であり、彼女は占領の最中、ドイツ軍人ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと交際し、ドイツ当局に対して協力的な姿勢をとっていた。このことは戦後のシャネルの評価に影響を与えており、21世紀に入った後もしばしば注目の対象となる。 戦時下におけるシャネルの行動は戦後(一部は戦中においても)物議をかもし、今もなおしばしば議論の対象となっている。シャネルの対独協力は既に20世紀中には良く知られていたが、2011年に伝記作家ハル・ヴォーンが新たに機密解除された資料に基づいてシャネルの対独協力行為を具体的に明らかにした『Sleeping with the Enemy, Coco Chanel and the Secret War(誰も知らなかったココ・シャネル)』を出版したことでこの件は再び大きな注目を浴びた。彼女の対独協力について大きな議論の対象となっているのは概ねドイツ軍人との交際、パルファム・シャネルの経営権の奪還にナチスの助力を得ようとしたこと、そしてドイツの諜報活動への関与である。 1944年のパリ解放直後に逮捕されたシャネルは連合国側の有力者、恐らくはイギリス首相ウィンストン・チャーチルの計らいによって戦後罪に問われることを免れた:293:271。しかし一方でパリ解放直後から、ドイツ兵と交際していたり、職業的にドイツ当局に協力していた女性たちの「水平的協力(horizontal collaboration)」に対して激しい制裁が加えられていた:34-35。水平的という言い回しは添い寝した状態の連想から来たものと思われ、また「娼婦」を意味する古い用法でもあった:40。現代では女性たちに対する制裁が行われたこと自体が人道上問題のあるものであるという見解が一般的であるものの、同様にドイツ軍人と交際していたシャネルが有力者の関与によってこれを免れたということはしばしば伝記作家らによって対比的に描写されている:253:14-15。 一方でシャネルのドイツ人に対する態度は利益のために単にそれを利用しただけというものでもなかった。彼女はイギリスとの和平を画策するドイツ諜報機関の活動に積極的に協力しており(「誇大妄想」と言われる類の計画であったにせよ)真剣にそれに取り組んでいた:215-221。そして戦後、もはやドイツ人との関係が重荷にしかならなくなった後も、彼女はすぐにディンクラーゲとの関係を断ちはせずスイスで共に暮らし(ただし、シャネルはディンクラーゲはイギリス人だと繰り返し発言している。事実としてディンクラーゲの母親はイギリス人の貴族であり、シャネルとディンクラーゲは英語で会話をしていた)、さらに共に計画を実行した親衛隊情報部の国外諜報局長シェレンベルクが助けを求めてきた時には彼に救いの手を差し伸べた:252。第二次世界大戦が終わった後、シェレンベルクはニュルンベルク軍事裁判にかけられ、戦争犯罪のために禁固6年の判決を受けたが、不治の肝臓疾患のために1951年に釈放されイタリアで療養した。シャネルはシェレンベルクの医療費と生活費を負担し、その妻と家族を資金的に支えた。そして彼が1952年に死去した時、その葬儀費用もシャネルが支払った:205–07。 シャネルは戦時中の自分の行動については沈黙を守り、その詳細について語ってはいない。シャネルの友人であったヘードリッヒは「わたしは、彼女が占領下の生活の不自由さについて話したのを聞いたことがない」とも記述している:270。フランスの伝記作家らはこの点について「彼女が尊敬すべき人間なのか、軽蔑すべき人間なのか、はたまた彼女を許すべきなのか、許してはならないのか、わからなくなってしまう」(エドモンド・シャルル・ルー:252)、「もし、マドモアゼル・シャネルが、占領下の憂鬱な年月についてもらす数少ない打ち明け話を文字通り受け取っていたら、われわれは歯ぎしりしたくなるだろう」(マルセル・ヘードリッヒ:264)と複雑な胸中を描写している。 2011年8月、ジャーナリスト・伝記作家のハル・ヴォーンが新たに機密指定解除された軍事情報文書の内容に基づいてシャネルの戦時中の行動を明らかにしたことで、シャネルの活動についてかなりの論争が引き起こされた。この機密解除文書によってパリ警視庁がシャネルに関する文書を保有していることが明らかになった。シャネルはこの文書に(ウェストミンスターを表わす)偽名「WESMINSTER」(原文ママ)、「諜報員番号(Indicatif d'agent)F-7124」と記されていた。。 シャネルがいかなる理由から対独協力を行ったのか明確ではない。ハル・ヴォーンはシャネルが「ナチスのスパイであった」と断言するが、ナチ・ハンターとして知られる歴史学者のセルジュ・クラルスフェルトは「彼女に諜報員番号が付けられたからといって、必ずしも個人的に関与していたということにはならない。密告者のなかには、知らないうちに番号を付けられた者もいた」と述べている。シャネル社は声明を発表し、その一部は複数のメディアで公表された。法人としてのシャネルは会社役員がこの本についてメディアによる抜粋しか読んでいないことを認めつつ「この(スパイ活動についての)主張に反駁した」。シャネルグループは「確かに言えることは、彼女が戦時中にドイツの貴族と関係を持っていたことである。たとえディンクラーゲ男爵の母方がイギリス人であったとしても、また彼女(シャネル)が戦前から彼を知っていたとしても、ドイツ人と恋愛関係を持つのに相応しい時代ではなかった」と述べる一方、「実際に何が起こったのか。彼女がどのような役割を演じようとしていたのか。この点については見解が分かれており、謎の部分が残っている」ことを強調している。 また、ヴォーンはシャネルが強烈な反ユダヤ主義者であったと評し動機の一つとしている。しかし、シャネルが反ユダヤ主義的な思考を持っていたことについては、ヴォーンやマッツエオのようなアメリカの伝記作家たちが言及しているものの、エドモンド・シャルル・ルー、マルセル・ヘードリッヒ、ポール・モランら、実際にシャネルと接した伝記作家らはシャネルの反ユダヤ主義について大きく取り上げてはいない。姪孫、ガブリエル・パラス・ラブリュニーはシャネルが反ユダヤ主義者であったという見解について「実に馬鹿らしい」と述べており、またシャネルが寄付をしたボードレール協会のイゼ・サン(セント)・ジョン・ノウルズ(Isée St. John Knowles)会長は、「ユダヤ人であろうとなかろうと、彼女(シャネル)はそんなことどうでもよかった」「(シャネルは)自己中心的だったから、人間に対する共感というものがなくて、ドイツ人もド・ゴールのレジスタンス運動家も何とも思っていなかった(侮蔑していた、まったく問題にしなかった)」という見解を示した。ヘードリッヒもまた、当時を回顧するシャネルの「ドイツ人がみんな与太者みたいなわけじゃなかった:264」「わたしは非難されるようなことは全然ないわ。あの人たちにどうすることができるのよ?」という言葉を引用し、その徹底した自己中心主義の故に戦争も敗北も彼女には「関係ないのだった:264,267」とまとめている。
※この「対独協力行為を巡る論争」の解説は、「ココ・シャネル」の解説の一部です。
「対独協力行為を巡る論争」を含む「ココ・シャネル」の記事については、「ココ・シャネル」の概要を参照ください。
- 対独協力行為を巡る論争のページへのリンク