対独レジスタンス運動 - アレクサンドル隊長
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「ルネ・シャール」の記事における「対独レジスタンス運動 - アレクサンドル隊長」の解説
第二次大戦が勃発し、シャールはアルザスの砲兵連隊に配属された。1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻。シャールはダンケルク撤退作戦(ダンケルクの戦い)のために、ロワレ県ジアン(サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏)に向かい、民間船による撤退のためにロワール川のジアン橋の防御にあたった。6月14日、パリ陥落。6月22日、独仏休戦協定締結。復員したシャールは、南仏自由地域(フランス語版)(ドイツ軍非占領地域)の故郷リル=シュル=ラ=ソルグに戻ったが、12月に共産党員と疑われ、ヴォクリューズ県知事に通報された。知事は警察に家宅捜査を命じたが、捜査員の一人から逮捕される可能性があることを事前に知らされたため、急遽、セレスト(フランス語版)(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、アルプ=ド=オート=プロヴァンス県)に逃亡。翌1941年の初めに地元のレジスタンス運動家と連絡を取り、運動に参加した。 この頃、マルセイユには米国亡命のための査証の発給を待つブルトン、ペレ、エルンスト、ヴィフレド・ラム、オスカル・ドミンゲスらシュルレアリストが多数集まっていた。とりわけ、エレノア・ルーズベルトの支援によって結成された米国緊急救助委員会 (ERC) から派遣されたヴァリアン・フライ(フランス語版)らが拠点とした「エール・ベル邸」は彼らの議論の場、制作活動の場となった。シャールは「エール・ベル邸」を訪れ、彼らに再会する機会を得た。また、米国亡命を希望しながら果たせなかったシュルレアリスムのユダヤ人画家で、シャールが「未来を幻視する画家」と称したヴィクトル・ブローネル をかくまって逃亡を助け、戦時中も同じ地域に住んで交流を続けていた。 シャールは最も活発なレジスタンス運動を展開したグループの一つ「秘密軍(フランス語版)」に属し、アレクサンドルという偽名でデュランス川南部地域の責任者を務めた。さらに別のグループ「アクシオン(行動)」のフランス戦闘部隊 (FFC) の隊長を務め、1942年から義務労働徴用(フランス語版) (STO) の制度が導入されると、徴用を拒否して逃亡した者たちを集めて部隊に組み入れた。1943年からはロンドン、次いでアルジェから参加したレジスタンス運動家を集めて空挺部隊(パラシュート部隊)を結成するほか、武器貯蔵庫を確保し、武器輸送などの地下活動のための連絡網を構築した。ドイツ軍がセレストに侵攻したときに重傷を負い、一時療養したが、回復するとアルジェの連合軍参謀本部からの招集により、1944年7月から8月にかけてプロヴァンス地方への連合国軍の上陸作戦(ドラグーン作戦)の準備を進めた。こうしたシャールのレジスタンス運動は、主に地下出版活動によって抵抗運動を展開した作家、たとえば、22人のレジスタンス詩人の作品集『詩人たちの名誉(フランス語版)』を編纂したエリュアール、ヴェルコールが地下出版のために創設した深夜叢書から作品を刊行したアラゴン、エルザ・トリオレ、ジャン・カスー、ジャン・ゲーノ、クロード・アヴリーヌらとは一線を画すものであった。 戦後に発表された詩集『イプノスの綴り』に収められた断章128はレジスタンスの体験に基づくものとして最も頻繁に引用される作品であり、教材として扱われることも多いが、エマニュエル・マクロンが大統領選の最初の集会で引用し、喝采を浴びたことでも知られることになった ―「私はこの人たちに何千もの信頼の糸で結びついていた。そして、その一本たりとも切れるはずはなかった。私はその日、激しく同胞を愛した。犠牲の精神を遙かに超えて。…そう、今日私はあなたたちを激しく愛する、友よ」。
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