対独レジスタンス - 地下出版とは? わかりやすく解説

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対独レジスタンス - 地下出版

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)

ルイ・アラゴン」の記事における「対独レジスタンス - 地下出版」の解説

ヴィシー政権下ではナチス・ドイツによって反独的な書物ユダヤ人による出版禁止され厳し検閲が行われた。また、あらゆる物資不足し、紙やインクなども配給制であったドイツ軍配給制限することで、さらに言論思想の自由抑圧したのである。さらに、1940年9月28日には出版社労働組合占領当局との間で検閲協定締結された。これにはアラゴン著書や『新フランス評論』を出版していたガリマール出版社、ドノエル出版社署名した一方同日付で駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(フランス語版)が禁書目録「オットー・リスト(フランス語版)」を発表した。これは出版社ごとに(ガリマール出版社は『新フランス評論出版社として)発禁または書店から回収する842人のユダヤ人作家反ナチス作家(主に共産主義者)の著書1,060冊の一覧であり、ハインリヒ・ハイネトーマス・マンシュテファン・ツヴァイクマックス・ジャコブジョゼフ・ケッセルジークムント・フロイトカール・グスタフ・ユングカール・マルクスレフ・トロツキーらのほか、フランス作家ではジュリアン・バンダレオン・ブルム、そしてアラゴンの『バーゼルの鐘』(ドノエル出版社刊行およびこのドイツ語翻訳)が挙がっている。『新フランス評論』は1940年6月1日にいったん終刊し、12月にオットー・アベッツの要請により再刊された。アベッツはピエール・ドリュ・ラ・ロシェル編集長任命したドリュ・ラ・ロシェル1920年代にはアラゴンブルトンとともにダダシュルレアリスム参加したが、ファシズム傾倒しヴィシー政権下ゲッベルス宣伝省企画による「新しヨーロッパ文化創造」を訴えワイマール作家会議に親ナチ作家率いて参加するなど対独協力派を代表する作家となった一方1939年8月23日独ソ不可侵条約締結されたことを受けてドイツ学者ジャック・ドクールフランス語版)、哲学者ジョルジュ・ポリツェル物理学者ジャック・ソロモン(フランス語版)が共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線一派として全国作家委員会結成した1941年6月22日ドイツ軍ソ連侵攻開始したことで(独ソ戦)、独ソ不可侵条約事実上破棄されると、共産党ヴィシー政府対独協力政策に対して公然と反対表明しモスクワからの指令に従って武装ゲリラ組織結成するなど、本格的なレジスタンス運動展開した。これは、党の機関紙編集長として独ソ不可侵条約締結以来複雑な立場にあったアラゴンにとっても同様であった。彼は1941年ガリマール社から『断腸詩集』を発表した後、翌42年には「エルザへの讃歌」と「エルザの瞳」をそれぞれアルジェ拠点を置く「フォンテーヌ評論出版社スイス拠点を置くバコニエール出版社から刊行していた。これらはエルザへの愛を歌う詩であると同時に女性名詞の「フランス」への愛の歌、すなわち、検閲の目をくぐって対独抗戦呼びかける抵抗の詩であった1941年ジャン・ポーラン全国作家委員会ジャック・ドクール地下出版週刊新聞レットル・フランセーズ (フランス文学)』を創刊当時挿絵画家であったジャン・ブリュレル(ヴェルコール)と作家のピエール・ド・レスキュール(フランス語版)は地下出版社の深夜叢書創設した。この2つグループは、文筆活動によってナチス弾圧抵抗し言論表現の自由擁護する活動牽引した1943年アラゴンエルザ・トリオレとともに南部自由地域全国作家委員会結成したこれを機に、ピエール・セゲルス、ジャン・カスークロード・アヴリーヌルイ=マルタン・ショフィエ(フランス語版)、ジャン・プレヴォー(フランス語版)、アンドレ・ルソー(フランス語版)、クロード・ロワらの参加得て組織拡大していった。なお、全国作家委員会パリ解放後に対独協力作家ブラックリストを『レットル・フランセーズ』紙に掲載し編集長ポーランはこれに抗議して辞任することになるが、戦後1953年から1972年まで同紙の編集長務めたのがアラゴンであった一方深夜叢書活動にもトリオレ、カスー、アヴリーヌとともに参加し1943年から44年にかけてトリオレの『アヴィニヨン恋人』、アラゴンの『グレバン蝋人形館』と『殉難者たちの証言(に基づく精神対す犯罪)』が地下出版された。これらはすべて偽名発表され、トリオレはローラン・ダニエル、アラゴン怒りフランソワ、ジャック・デンタンという偽名使った。『殉難者たちの証言』では、人類博物館シャイヨ宮)を拠点として非合法新聞レジスタンスフランス語版)』を発刊し1942年2月23日にモン・ヴァレリアン要塞フランス語版)で銃殺刑処され言語学者民族学者ボリス・ヴィルデ人類学者のアナトール・ルヴィツキー(フランス語版)らの「人類諸国民の科学である民族学」に基づくレジスタンス運動を、ヒトラー人種主義対す抵抗運動捉えている。 深夜叢書からは、ポール・エリュアール22人のレジスタンス詩人作品編纂した詩人たちの名誉(フランス語版)』、および戦後レジスタンス文学アンソロジー祖国日夜つくられるフランス語版)』も刊行された。エリュアールアラゴン事件直後に「アラゴン別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と辛らつ批判し以後二人10年近くわたって会っていなかったが、二人を再び結びつけたのはレジスタンス運動であり、1942年発表されエリュアールの詩「自由(フランス語版)」は、英国空軍機からフランス全土にばら撒かれフランス国民の心に希望らせた。エリュアールが無署名書いた詩人たちの名誉』の序文には、「アメリカ人民に鼓舞されホイットマン武器取れ呼びかけユーゴーパリ・コミューンから霊感与えられランボー、みずからも奮い立ち、ひとをも奮い立たせたマヤコフスキー・・・広大な見地立った詩人たちは行動へと導かれたのだ・・・闘争こそが詩人たちに力を与えることができる」と書かれているアラゴンはこのアンソロジーに同じ偽名で「フランス起床ラッパ」、「責苦のなかで歌ったもののバラード」、「ストラスブール大学の歌」、「薔薇木犀草」などの詩を発表したとりわけ共産党員レジスタンス運動家として活動を共にし、1941年12月15日銃殺刑処されたガブリエル・ペリ、ドイツ将校殺害報復として1941年10月22日銃殺刑処され人質48人の1人17歳共産党員ギィ・モケ同じくレジスタンス運動家として処刑されキリスト者のエティアンヌ・ドルヴとジルベール・ドリュの4人に捧げられた「薔薇木犀草」は、共産党象徴である赤い薔薇と、フランス王政・カトリックの色である白の木犀草によって、「神を信じたものも、信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた・・・なお歌続けよ薔薇木犀草とをともに燃えたたせたあの愛を」と、フランスのための連帯団結、対独抗戦を讃えている。また、ジャン・ポーランドミニク・オーリー共編アンソロジー祖国日夜つくられる』には、「リラ薔薇」、「アウシュヴィッツ」、「ラ・ロシェル包囲戦の歌」などが掲載されている。

※この「対独レジスタンス - 地下出版」の解説は、「ルイ・アラゴン」の解説の一部です。
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