対独レジスタンス - 地下出版
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「ルイ・アラゴン」の記事における「対独レジスタンス - 地下出版」の解説
ヴィシー政権下ではナチス・ドイツによって反独的な書物やユダヤ人による出版が禁止され、厳しい検閲が行われた。また、あらゆる物資が不足し、紙やインクなども配給制であった。ドイツ軍は配給を制限することで、さらに言論・思想の自由を抑圧したのである。さらに、1940年9月28日には出版社労働組合と占領当局との間で検閲協定が締結された。これにはアラゴンの著書や『新フランス評論』を出版していたガリマール出版社、ドノエル出版社も署名した。一方、同日付で駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ(フランス語版)が禁書目録「オットー・リスト(フランス語版)」を発表した。これは出版社ごとに(ガリマール出版社は『新フランス評論』出版社として)発禁または書店から回収する842人のユダヤ人作家・反ナチス作家(主に共産主義者)の著書1,060冊の一覧であり、ハインリヒ・ハイネ、トーマス・マン、シュテファン・ツヴァイク、マックス・ジャコブ、ジョゼフ・ケッセル、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユング、カール・マルクス、レフ・トロツキーらのほか、フランスの作家ではジュリアン・バンダ、レオン・ブルム、そしてアラゴンの『バーゼルの鐘』(ドノエル出版社刊行およびこのドイツ語翻訳)が挙がっている。『新フランス評論』は1940年6月1日にいったん終刊し、12月にオットー・アベッツの要請により再刊された。アベッツはピエール・ドリュ・ラ・ロシェルを編集長に任命した。ドリュ・ラ・ロシェルは1920年代にはアラゴン、ブルトンらとともにダダ、シュルレアリスムに参加したが、ファシズムに傾倒し、ヴィシー政権下でゲッベルスの宣伝省の企画による「新しいヨーロッパ文化の創造」を訴えるワイマール作家会議に親ナチ作家を率いて参加するなど対独協力派を代表する作家となった。 一方、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されたことを受けて、ドイツ学者ジャック・ドクール(フランス語版)、哲学者ジョルジュ・ポリツェル、物理学者ジャック・ソロモン(フランス語版)が共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線の一派として全国作家委員会を結成した。1941年6月22日にドイツ軍がソ連侵攻を開始したことで(独ソ戦)、独ソ不可侵条約が事実上破棄されると、共産党はヴィシー政府の対独協力政策に対して公然と反対を表明し、モスクワからの指令に従って武装ゲリラ組織を結成するなど、本格的なレジスタンス運動を展開した。これは、党の機関紙の編集長として独ソ不可侵条約の締結以来、複雑な立場にあったアラゴンにとっても同様であった。彼は1941年にガリマール社から『断腸詩集』を発表した後、翌42年には「エルザへの讃歌」と「エルザの瞳」をそれぞれアルジェに拠点を置く「フォンテーヌ評論」出版社とスイスに拠点を置くバコニエール出版社から刊行していた。これらはエルザへの愛を歌う詩であると同時に、女性名詞の「フランス」への愛の歌、すなわち、検閲の目をくぐって対独抗戦を呼びかける抵抗の詩であった。 1941年にジャン・ポーランと全国作家委員会のジャック・ドクールが地下出版の週刊新聞『レットル・フランセーズ (フランス文学)』を創刊。当時挿絵画家であったジャン・ブリュレル(ヴェルコール)と作家のピエール・ド・レスキュール(フランス語版)は地下出版社の深夜叢書を創設した。この2つのグループは、文筆活動によってナチスの弾圧に抵抗し、言論・表現の自由を擁護する活動を牽引した。1943年、アラゴンはエルザ・トリオレとともに南部自由地域の全国作家委員会を結成した。これを機に、ピエール・セゲルス、ジャン・カスー、クロード・アヴリーヌ、ルイ=マルタン・ショフィエ(フランス語版)、ジャン・プレヴォー(フランス語版)、アンドレ・ルソー(フランス語版)、クロード・ロワらの参加を得て、組織が拡大していった。なお、全国作家委員会はパリ解放後に対独協力作家のブラックリストを『レットル・フランセーズ』紙に掲載し、編集長のポーランはこれに抗議して辞任することになるが、戦後1953年から1972年まで同紙の編集長を務めたのがアラゴンであった。 一方、深夜叢書の活動にもトリオレ、カスー、アヴリーヌらとともに参加し、1943年から44年にかけてトリオレの『アヴィニヨンの恋人』、アラゴンの『グレバン蝋人形館』と『殉難者たちの証言(に基づく精神に対する犯罪)』が地下出版された。これらはすべて偽名で発表され、トリオレはローラン・ダニエル、アラゴンは怒りのフランソワ、ジャック・デンタンという偽名を使った。『殉難者たちの証言』では、人類博物館(シャイヨ宮)を拠点として非合法の新聞『レジスタンス(フランス語版)』を発刊し、1942年2月23日にモン・ヴァレリアン要塞(フランス語版)で銃殺刑に処された言語学者・民族学者のボリス・ヴィルデ、人類学者のアナトール・ルヴィツキー(フランス語版)らの「人類と諸国民の科学である民族学」に基づくレジスタンス運動を、ヒトラーの人種主義に対する抵抗運動と捉えている。 深夜叢書からは、ポール・エリュアールが22人のレジスタンス詩人の作品を編纂した『詩人たちの名誉(フランス語版)』、および戦後にレジスタンス文学のアンソロジー『祖国は日夜つくられる(フランス語版)』も刊行された。エリュアールはアラゴン事件直後に「アラゴンは別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と辛らつに批判し、以後、二人は10年近くにわたって会っていなかったが、二人を再び結びつけたのはレジスタンス運動であり、1942年に発表されたエリュアールの詩「自由(フランス語版)」は、英国空軍機からフランス全土にばら撒かれ、フランス国民の心に希望を蘇らせた。エリュアールが無署名で書いた『詩人たちの名誉』の序文には、「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を取れと呼びかけたユーゴー、パリ・コミューンから霊感を与えられたランボー、みずからも奮い立ち、ひとをも奮い立たせたマヤコフスキー・・・広大な見地に立った詩人たちは行動へと導かれたのだ・・・闘争こそが詩人たちに力を与えることができる」と書かれている。アラゴンはこのアンソロジーに同じ偽名で「フランスの起床ラッパ」、「責苦のなかで歌ったもののバラード」、「ストラスブール大学の歌」、「薔薇と木犀草」などの詩を発表した。とりわけ、共産党員・レジスタンス運動家として活動を共にし、1941年12月15日に銃殺刑に処されたガブリエル・ペリ、ドイツ将校殺害の報復として1941年10月22日に銃殺刑に処された人質48人の1人で17歳の共産党員ギィ・モケ、同じくレジスタンス運動家として処刑されたキリスト者のエティアンヌ・ドルヴとジルベール・ドリュの4人に捧げられた「薔薇と木犀草」は、共産党の象徴である赤い薔薇と、フランス王政・カトリックの色である白の木犀草によって、「神を信じたものも、信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた・・・なお歌い続けよ、薔薇と木犀草とをともに燃えたたせたあの愛を」と、フランスのための連帯・団結、対独抗戦を讃えている。また、ジャン・ポーラン、ドミニク・オーリー共編のアンソロジー『祖国は日夜つくられる』には、「リラと薔薇」、「アウシュヴィッツ」、「ラ・ロシェル包囲戦の歌」などが掲載されている。
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