第二次大戦 - 対独レジスタンス
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「ミシェル・レリス」の記事における「第二次大戦 - 対独レジスタンス」の解説
だが、1939年、第二次大戦勃発により、社会学研究会が解散になり、レリスは化学者として動員され、オラン(アルジェリア)の部隊に配属された。翌40年には復員したが、妻の実家カーンワイラー家はドイツ軍非占領地域(自由地域(フランス語版))の南西部リムーザン地域圏へ疎開し、友人らもまた、その多くがマルセイユからスペイン経由で亡命し始めていた。ミロはマヨルカ島(スペイン)へ逃れた。アフリカ黒人彫刻を専門とするユダヤ系ドイツ人の美術評論家・作家で『ドキュマン』誌の主な寄稿者の一人であったカール・アインシュタイン(フランス語版)は、スペイン内戦で共和派として戦った経験があるために亡命できずに、ナチスから逃れるために自殺した。パリに残っていたのは(対独協力者以外は)主に対独レジスタンスの作家であり、1942年にジャン=ポール・サルトルに出会った。サルトルとは戦後1945年に『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊することになる。当初の編集委員は2人のほか、レイモン・アロン、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、モーリス・メルロー=ポンティ、アルベール・オリヴィエ(フランス語版)、ジャン・ポーランであった。 戦時中は、ジャン・ポーランが共産党のレジスタンス・グループ「国民戦線(フランス語版)」に属する全国作家委員会(フランス語版) (CNE) の代表ジャック・ドクール(フランス語版)とともに創刊した地下出版の『レットル・フランセーズ(フランス文学)』に寄稿し、全国作家委員会にも加盟した。
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第二次大戦 - 対独レジスタンス
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「ロベール・デスノス」の記事における「第二次大戦 - 対独レジスタンス」の解説
1939年9月に第二次大戦が勃発し、デスノスは動員された。1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻、6月22日には独仏休戦協定が締結され、パリを含むフランス北部はナチス・ドイツの占領下に置かれた。1942年11月に、ドイツ軍は南部のヴィシー政権下の自由地域(フランス語版)への侵攻を開始。この間、デスノスはユキとともにパリに留まり、対独レジスタンスに参加した。ラジオ番組の制作を中断せざるを得なくなり、1940年9月にアンリ・ジャンソン(フランス語版)によって創刊された『オージュルデュイ(フランス語版)』紙の記者を務めたが、ジャンソンはヴィシー政権を批判し、ドイツ軍の反ユダヤ主義に抵抗して編集長を辞任。ジャンソンの仕事を引き継いでしばらく記者活動を続けたが、やがて同紙を離れて地下活動に入った。ミシェル・オラール(フランス語版)陸軍中佐が結成したレジスタンス・グループAGIR(Réseau AGIR)に参加し、地下出版の新聞に秘密情報を提供する役割を担い、また、ユダヤ人やレジスタンス運動家のために身分証明書を偽造する活動にも参加した。 一方、詩作を再開し、30年代に書かれた詩を編纂した『財産』(1942年)、詩と歌や音楽を組み合わせたリフレインによる『覚醒状態』(1943年)、子供向けの『お話歌』(1944年)、隠語によるソネット『アンドロメダとの入浴』(1944年)などを刊行。さらに、1943年にはポール・エリュアールが編纂したレジスタンスの詩人22人の作品集『詩人たちの名誉(フランス語版)』(地下出版の深夜叢書から刊行)に「遺産」、「戦争を憎む心」、翌年刊行された第2部「欧州編」には「シャンジュ橋の夜回り」(堀口大學訳『デスノス詩集』所収)などを偽名(リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエ、ヴァランタン・ギロワ)で発表した。 1944年2月22日の朝、マザラン通りの自宅でゲシュタポに逮捕された。フレンヌ刑務所(フランス語版)に収容された後、コンピエーニュ(オワーズ県)のロワイヤリュー収容所(フランス語版)に移送され、4月27日に(ユダヤ人を除く)レジスタンス運動家専用の列車でアウシュヴィッツ強制収容所、次いでブーヘンヴァルト強制収容所、さらにフロッセンビュルク強制収容所、最後に2週間に及ぶ死の行進の後、1945年4月14日にテレージエンシュタット強制収容所(チェコスロバキア)に到着した。収容所は5月9日にソ連赤軍によって解放されたが、衰弱しきってチフスを患っていたデスノスは、6月8日に死去した。最期に立ち会ったのは、かつてパリで知り合った2人のチェコ人医学生であった。享年44歳。モンパルナス墓地に眠る。 なお、死亡時に医学生の一人が死亡時に発見したという「最後の詩」は、没後作品集に収められ、フランシス・プーランクが作曲するなど、一時は代表作の一つと見なされたが、実際には上述のイヴォンヌに捧げた「あまりにきみを夢見たので」の最後の部分と酷似しており、実際にデスノスが書いたものかどうかは不明である。 デスノスの遺灰を前にしたエリュアールは、「デスノスの詩は勇気の詩だ。自由の思想が凄まじい炎のように走っている」と語った。
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第二次大戦 - 対独レジスタンス
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「フィリップ・スーポー」の記事における「第二次大戦 - 対独レジスタンス」の解説
2度目のドイツ訪問はヒトラー内閣成立後のことであった。帰国後に国営ラジオ放送局PTTのパリ支局で文化番組を担当したが、同じラジオPTT勤務で後に対独レジスタンス運動を率いることになるピエール・ブロソレットと、人民戦線内閣首相のレオン・ブルムからの依頼により、1938年10月にファシズムの放送局「ラジオ・バリ」に対抗する「ラジオ・チュニス(フランス語版)」を創設した。1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻し、フランスがドイツに対して宣戦布告すると、スーポーはチュニス(チュニジア)の情報部局長に任命された。だが、ドイツ軍の圧倒的な勝利によりパリ陥落、早くも1940年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、スーポーはヴィシー政権により解任され、1942年3月12日に「反逆罪」で逮捕された。9月には釈放されたが、この間のことは、後に自伝『人殺しの時代』に書かれ、1945年にニューヨークで出版された。 スーポーは妻レとともにアルジェ(アルジェリア)に向かった。アルジェではド・ゴールが1943年6月にフランス国民解放委員会(後のフランス共和国臨時政府)を結成し、ナチス・ドイツによる検閲を逃れるための出版活動の拠点の一つとなっていた。最も重要な雑誌が、詩人マックス=ポル・フーシェ(フランス語版)が1942年に創刊した『フォンテーヌ(フランス語版) (泉)』誌であった。大戦下で国民を鼓舞することになったエリュアールの詩「自由(フランス語版)」が掲載されたのもこの雑誌である。対独レジスタンスの一環として、『フォンテーヌ』誌に作品を掲載した作家はスーポー、エリュアールのほか、アラゴン、エルザ・トリオレ、サン=ポル=ルー、アンドレ・ジッド、クロード・ロワ、マックス・ジャコブ、ピエール・ジャン・ジューヴらで、スペインの詩人ガルシア・ロルカ、アントニオ・マチャードの詩や、T・S・エリオット、ヘミングウェイ、スタインベック、ヘンリー・ミラー、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズなどの米国の作家・詩人の作品も紹介された。
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