対独レジスタンス - 人類博物館グループ
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「ジェルメーヌ・ティヨン」の記事における「対独レジスタンス - 人類博物館グループ」の解説
1939年9月、第二次大戦勃発。ティヨンは1940年6月9日、ドイツ軍のパリ入城の5日前にオーレス山地での調査を終えてパリに戻った。博士論文執筆の準備を進めていたが、ポール・オーエ(フランス語版)退役大佐に出会い、対独レジスタンスに参加した。1937年にポール・リヴェにより設立された人類博物館(シャイヨ宮)の地下室はファシズムに反対する知識人の集会所になっていた。ティヨンはここで、言語学者・民族学者ボリス・ヴィルデ、図書館員イヴォンヌ・オドン(フランス語版)、人類学者アナトール・ルヴィツキー(フランス語版)、美術史家アニエス・ユンベール(フランス語版)、モーリス・デュテイユ・ド・ラ・ロシェール(フランス語版)大佐らとともにレジスタンス・グループを結成し、非合法の『レジスタンス』紙を発行・配布した。館長ポール・リヴェ、作家のジャン・ポーラン、弁護士のレオン・モーリス・ノルドマン(フランス語版)、詩人のジャン・カスーらも協力した。1941年、人類博物館で2月にルヴィツキーとオドン、3月にヴィルデ、4月にユンベール、さらにオーエ大佐とラ・ロシェール大佐も逮捕された。翌42年に人類博物館グループのメンバー19人の裁判が行われ、10人が死刑判決を受けた。ティヨンは特赦を求めたが叶わなかった。2月23日、ヴィルデ、レヴィツキーほか7人がモン・ヴァレリアン要塞(フランス語版)で銃殺された。ルイ・アラゴンはロシア生まれのヴィルデとレヴィツキーについて、「祖国のボルシェヴィスムから逃れてきてフランス人となり、人類と諸国民の科学である民族学によって人類の現実に眼をひらいたこの二人の人物が、ヒットラーの民族主義(人類差別主義)に反対したのは偶然ではない・・・この二人が人類博物館の働き手となったのは偶然ではない。人類博物館の教えは、あの征服の道具にすぎない有名なナチの科学とは相反するのである」(大島博光訳)と書いている。
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