人類博物館グループ
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「ボリス・ヴィルデ」の記事における「人類博物館グループ」の解説
スイスとフィンランドへの3度目の派遣を間近に控えた1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告。砲兵長、次いで砲兵伍長としてフランス軍に従軍した。 1940年5月にナチス・ドイツがフランスに侵攻し、6月15日に首都パリが陥落。ヴィルデは6月17日にジュラ県で捕虜となったが、負傷しながらも逃亡に成功し、7月にパリに戻った。第二の祖国であるフランスの敗北に胸を痛めたヴィルデは対独活動を開始し、人類博物館の同僚で図書館員のイヴォンヌ・オドン(フランス語版)、同じロシア出身の人類学者アナトール・ルヴィツキー(フランス語版)とともにグループを結成した。フランス革命期の公安委員会に因んで「国家公安委員会」と命名され、後に人類博物館グループとして知られることになったこのグループは、最も早い時期に結成された対独レジスタンス・グループの一つであり、人類博物館(シャイヨ宮)を拠点として、館長のリヴェのほか、歴史学者のロベール・フォーティエ(フランス語版)、後にポール・オーエ(フランス語版)退役大佐、モーリス・デュテイユ・ド・ラ・ロシェール(フランス語版)大佐、民族学者・人類学者のジェルメーヌ・ティヨンと彼女の母で著述家のエミリー・ティヨン(フランス語版)らが参加した。 「対独活動の演出家」と呼ばれたヴィルデは、パリや地方の他のグループとの連携活動を組織した。リュクサンブール美術館(国立近代美術館の前身)の主任学芸員であったジャン・カスーは、左派の政治活動を理由にヴィシー政権によって解雇され、小説家クロード・アヴリーヌ、美術史家アニエス・ユンベール(フランス語版)らとともに自由フランスに参加する「ロンドンの自由なフランス人」に倣って「フランスの自由なフランス人」と名付けた新聞を発行していた。パリのリュシー・ブティリエ・デュ・レターユ、ドーバー海峡に面したパ=ド=カレー県のベテューヌに住むシルヴェット・ルルー(フランス語版)、脱走兵・不法移民の逃亡やダンケルクからの兵士の救出(ダイナモ作戦)に参加したド・ラ・ロシェール大佐は、英国への逃亡ルートを確保した。次いでレオン=モーリス・ノルドマン(フランス語版)、アンドレ・ヴェイユ=キュリエル(フランス語版)らパリの弁護士グループ、写真家のピエール・ヴァルテルを中心とするアルザス・グループと連携した。1940年末頃には中部・南部のクレルモン=フェラン、トゥールーズ、マルセイユ、リヨン、コート・ダジュールへ赴き、自由地域への連絡網を拡大し、ブルターニュ地方やスペイン経由の逃亡ルートを確保した。
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