汚名を雪ぐ殉難者の血
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一方、独ソ不可侵条約の締結によって打撃を受けた共産党は、この事件を国民に広く伝えることで、国のために多くの犠牲者を出した政党へとイメージの転換を図ろうとした。地下抵抗運動を指導していた党幹部のジャック・デュクロ(フランス語版)は、同志の弁護士ジョー・ノールマン(フランス語版)にシャトーブリアンで証言を集めるよう命じた。ノールマンはこうした証言と「銃殺刑に処された人々」の最後の手紙、一覧表(略歴、職業、役職)などの資料を持って、南部の自由地域(ドイツ軍非占領地域)のニースにいた共産党員で作家のルイ・アラゴンを訪ねた。資料に添えられた「これらを記念碑的文献にせよ」というデュクロの言葉を見たアラゴンは、このような使命は影響力のある作家に委ねた方が良いと判断し、同じ自由地域にいたアンドレ・ジッドとロジェ・マルタン・デュ・ガールに相談したが断られた。そこで彼自らが執筆にあたり、「銃殺刑に処された人々(fusillés)」ではなく「殉難者(martyrs)」として『殉難者の証言(Témoin des martyrs)』を発表した。アラゴンはこの使命について「これ以上に誇りとするものは世界にない」と書いている。『殉難者の証言』は1943年にヴェルコールらが地下出版社として創設した深夜叢書から刊行されることになるが、その前に1942年から小冊子としてフランス全土で配布され、戦時中の英国放送協会(BBC)のフランス語放送ラジオ・ロンドル(フランス語版)(ロンドン・ラジオ)、モスクワ放送(現ロシアの声)のフランス語放送で朗読された。内容は、「コミュニストだったのだからと人は言う」、「シャトーブリアン、10月20・21両日」、「災厄の日とその前夜」、「呼びだし」、「ラ・マルセイエーズ」、「出発準備」、「沈黙が死刑執行人らの上に落ちかかる」、「目隠しせず、手も縛られずに」、「失心したまま銃殺されたギィ・モケ」、「犠牲者の身の上の概要」、「これでもフランスだろうか」などである。 アラゴンはまた、対独レジスタンス運動家として銃殺刑に処された共産党中央委員会の委員ガブリエル・ペリ(フランス語版)、オノレ・デスティエンヌ・ドルヴ(フランス語版)海軍大尉、キリスト教徒のジルベール・ドリュ(フランス語版)、そしてギィ・モケの4人に捧げる詩「薔薇と木犀草」を書き、自由地域マルセイユの新聞『ル・モ・ドルドル(合言葉)』に発表した。これは、共産党の象徴である赤い薔薇と、フランス王政・カトリックの色である白の木犀草によって祖国のための連帯・団結、対独抗戦を称える詩であり、「神を信じたものも、信じなかったものも、ドイツ兵に囚われたあの美しきものをともに讃えた … なお歌い続けよ、薔薇と木犀草とをともに燃えたたせたあの愛を」(大島博光訳)と歌っている。 こうしてギィ・モケは祖国フランスのために死んだ英雄として、たとえば、フランシュ=コンテの義勇遊撃隊(フランス語版)が「ギィ・モケ」グループとして戦った。彼らは1943年9月26日にブザンソン城塞(フランス語版)で銃殺刑に処され、「殉難者」の一人アンリ・フェルテ(フランス語版)は16歳で、ギィ・モケと同じように両親への愛、祖国への愛を表現した最後の手紙がレジスタンスの地下出版物に掲載された。なお、2019年6月5日、エマニュエル・マクロン大統領はノルマンディー上陸作戦の75周年に、出撃する軍の乗船場となったイングランドのポーツマスを訪れ、フェルテの手紙を読み上げた。 ギィ・モケの名前は、この他にも共産党の組織の名称として使用され、シャトーブリアンの「銃殺刑に処された人々の砂利採取場」には追悼碑が建てられた。17区バロン通りのギィ・モケの家にも銘板が設置された。この銘板には1944年に12歳で病死した弟セルジュの名前も刻まれている。 戦後、フランスの約50の都市で通りの名称がギィ・モケに改称され、次いで体育館、プール、スタジアム、青年の家、学校などもギィ・モケの名前を冠した名称に変更された。シャトーブリアンでは「リセ・ギィ=モケ」が創設され、パリでは1946年にパリ17区のバラニー通りがギィ=モケ通り(フランス語版)に改称され、これに伴って17区と18区の境界にある地下鉄の駅がマルカデ=バラニー駅からギィ=モケ駅(フランス語版)に改称された。
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