運動家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 01:14 UTC 版)
1949年日本社会党に入党、高野を助けて総評結成に参画。初期総評の指導体制を固めた労働者同志会の有力メンバーとなり、太田薫、岩井章と終生親しくなる。1950年6月「総評を軸とする産業別整理」案を起草。1951年鉄鋼労連結成に際して、運動方針書を執筆し初代書記長(翌年副委員長)。1953、1954年総評代表のかたちで社会党(左派)中央執行委員。政策審議会参与として、和田博雄の下でアメリカの援助に依存しない自立的な日本の経済再建に携わり、山川均、有沢広巳の助言のもと、「MSAに挑戦して」という題の社会党政策審議会案の経済自立計画の前文を執筆する、これは政策と運動を結びつけるという山川の指示によるものであった。参議院予算委員会で公述人として発言(1953年7月10日)。また左社綱領論争では綱領委員として、全面講和の平和問題談話会の立場に立ち、対米従属から脱却し平和と独立を重視する民族独立社会主義革命を内容とする「清水私案」と戦後史上いわれる反対提案をした。清水自身は独立革命の社会主義的発展という言葉を使っていた。これは上田耕一郎によればアメリカの占領を間接統治による占領軍権力の支配と解釈し、占領軍権力下の日米癒着関係をはじめて指摘したものであった(「日本社会党(左)綱領清水私案ー帝国主義下の行動綱領」『清水慎三著作集』収録)。1953年の第3回参議院議員通常選挙に全国区から左派社会党公認で立候補したが落選した。向坂逸郎の左社綱領の原案に対し綱領起草委員会では少数意見で否決。左派社会党のすべての役職から退き、1953年12月に創立メンバーであった社会主義協会を高野実とともに脱退。 清水の考え方は小山弘健から「新型左翼社民思想」と呼ばれた。1955年、総評・全国一般合同労組が結成されると、以後30年以上の長きにわたって顧問をつとめ、困難な中小未組織労働者の組織化に関わる。また後に構造改革派の中心になる社会党青年部の指導にあたる。1956年『社会タイムス』編集長(社長は青野季吉)。1956年9月総評組織綱領委員会がつくられ、藤田若雄、舟橋尚道、山川菊栄、島津千利世、氏原正治郎(当初は久野収も参加)とともに委員となり、討議をかさねるとともに、三井鉱山の砂川、美唄、日本鋼管の川鉄・鶴鉄、東武鉄道、北陸鉄道などで現地調査をおこない、1958年3月『組織綱領草案』全文を起草する。内容は東大社会科学研究所労働調査グループに評判がよく全員に読まれる。特に大河内一男には「これはよくできた書物だ。日本ではじめての包括的で、まとまった労働組合論だ」と賞賛される一方、組合幹部からは難解との評価もあった。戦後二十数年の実践経験を集約し職場闘争に立脚した組織論を展開。1959年総評長期政策委員会事務局長となり、特にエネルギー問題、雇用問題を扱う。堀江正規、井汲卓一、相原茂、高木郁朗らと関わる。特に高木とは終生深い親交を持つ。石炭合理化問題に取り組み、三池闘争では現場に派遣され、特に坑内夫中心の三川鉱に深く関わる。60年安保闘争後、佐藤昇らとともに構造改革論争の口火をきった。成田知巳が79年亡くなるまで深い関係をもつ。61年「構造改革論に関する社会党への公開質問書」を執筆し、総評長期政策委員会から当時社会党政策審議会会長だった成田に提出。同年向坂逸郎、相原茂とソ連、チェコスロバキア、フランスを訪問。モスクワで科学アカデミー経済研究所に通い、チェコでは組合大会に招待される。62年総評から退き、労働運動家としては事実上引退。以後評論家の立場になる。1960年代通じて日教組教研集会講師をつとめる。《戦後》革新勢力の構造と性格に対する戦後史的考察を深め、”左翼バネ論””社会党・総評ブロック論””社共双軸論”など状況を的確に示す用語で、清水イズムを浸透させ、また現実感覚に基づく提言で大きな影響をもった。 1975年のスト権ストでの総評労働運動の挫折を重く受け止め、1980年代以後、対抗社会論、ゼネラルユニオン論で自立個人加盟労組を提唱し、コミュニティユニオンなど自立した諸個人の自由な連合に基、に龍井葉二とは連合では終生深く友好な関係をもった。特に中小企業への取り組みを積極的に評価した。また80年代数度にわたり日中交流学際訪中団を編成して中国との研究交流と視察に情熱を傾ける。ロバート・オウエンを始祖とする協同社会セクターが各国各地域に創出され成長して、資本主義先進国とは異質の基軸価値観に立つ国家形成・社会形成をめざし、対抗文化、対抗社会の民衆的基盤の形成が第一義的に必要であり、さらにパブリックセクターとの提携を促して政治的多数派を形成することが次の時代構築の理念と目標を活性化すると考えた。そして日本の政治風土のなかに広く根をはり、わけても二大政治勢力の一翼にまでなるには、西欧社民の理念を継承するにしても、直訳的な移植ではなく、日本の基層社会、基層生活文化の岩盤にくいこみ、接合させて、社民自体の社会的内在化をはかることが、日本社民の創造にたどりつくと考えた。
※この「運動家として」の解説は、「清水慎三」の解説の一部です。
「運動家として」を含む「清水慎三」の記事については、「清水慎三」の概要を参照ください。
運動家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:28 UTC 版)
1955年10月1日に長崎原爆青年乙女の会を結成して初代会長に就任。また長崎原爆被災者協議会会長、日本被爆者団体協議会代表理事、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員などを歴任した。 1982年にニューヨークで開かれた第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、NGOを代表して演説した。 尊敬する議長、事務総長、並びに各国代表の皆さん、NGOの兄弟姉妹のみなさん、全人類の生存か絶滅かに深く関わるこの歴史的な第2回国連軍縮特別総会全体委員会で、私は、日本の婦人や青年の団体、宗教団体、平和団体、労働者や被爆者などの日本の草の根運動、核兵器禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会を代表して発言する機会を与えられたことに対し、感謝と敬意を表明致します。私たちは核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名2,886万2,935名分を携えて参りました。(中略)私の顔や手をよく見て下さい。よく見て下さい。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。 ありがとうございました。 — 1982年6月、第2回国連軍縮特別総会にて 山口の活動は1986年5月22日にNHK「被爆者 アメリカを行く」で、またその半生は1999年5月29日に長崎放送「ゆるすまじ~山口仙二 その生の記憶」で紹介された。 2007年4月に発足した「ノーモア・ヒバクシャ九条の会」の呼びかけ人にも名を連ねている。 2010年、様々な分野で長崎県の発展に貢献した人を顕彰する長崎新聞文化賞を受賞。
※この「運動家として」の解説は、「山口仙二」の解説の一部です。
「運動家として」を含む「山口仙二」の記事については、「山口仙二」の概要を参照ください。
- 運動家としてのページへのリンク