四年一貢問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「四年一貢問題」の解説
1789年以降、一貢免除問題は琉球側の対策もあって回避されるようになってきたが、19世紀の道光年間にはより深刻な問題が起きる。これまでの二年一貢から四年一貢への変更問題である。1839年、道光帝は琉球、ベトナム、シャムの三国に対し、四年に一度進貢を行う、四年一貢への変更を命じた。ベトナムはそれまでも実質的に四年一貢であり、シャムは三年一貢であったため、この道光帝の命令によって琉球が最も大きな影響を被ることになる。そのため琉球の朝貢間隔の変更を主目的とした命令ではないかと見られている。 道光帝の命令は翌1840年に琉球に届いた。琉球は事態の深刻さに驚愕し、薩摩藩と協議の上で四年一貢阻止のための陳情を行う使節団を、1840年派遣予定の進貢使とともに清に派遣することにした。琉球王府の摂政、三司官という首脳部から使節団に対して、二年一貢を守らなければ薩摩と琉球が利益を得ている朝貢貿易にとって大打撃となること。これまで長年維持され続けてきた二年一貢から四年一貢への変更は琉球の体面を汚し、清の徳化に浴する機会も減少すること。そして薩摩藩側も極めて重大な事態であるとの認識で一致していることが説明され、まずは福州の対琉球関係者らと内密に対策を検討するよう指示が出された。そして陳情使節団には薩摩藩の了承のもとで工作資金を持参させた。 1840年11月に福州に到着した四年一貢阻止の陳情使節団は、福州の対琉球関係者に対して国王尚育からの書状を提出した。書状は清の徳化に浴しているからこそ琉球は成り立っていけるのであって、二年一貢から四年一貢への変更は死活問題であると訴えたものであった。国王の書状内では薩摩と琉球が利益を得ている朝貢貿易に大打撃を与えることになるという、いわば本音の部分については全く触れられなかった。福州側は陳情使節団に対して、まず道光帝の四年一貢の命令に反して進貢使を派遣してきたことを詰問するとともに、琉球側からの訴えを聞いた。琉球側は工作資金をばら撒くとともに、四年一貢阻止を強力に訴え続けた。 琉球側の陳情と運動により、福州の最高責任者であった呉文鎔を動かすことに成功した、呉は琉球側は誠意を持って従来の二年一貢の継続を訴えており、また海洋国である琉球との貿易によって中国では入手が難しい商品を手に入れていると、二年一貢の継続を求める琉球側に立った上奏文を作成した。現実問題として琉球側のみならず福州にとっても、進貢船と接貢船による琉球との冊封貿易の利益を毎年手に入れていたわけで、四年一貢への変更は痛手であった。呉文鎔が琉球側の意向に沿った上奏文を作成したとの情報をキャッチした琉球側は、更に北京の中央政府の官僚に対する陳情を行った。結局道光帝は1840年12月、前年の四年一貢を取り消し二年一貢の継続を認める命令を下す。この四年一貢阻止のための陳情活動はまさにアヘン戦争の最中に行われたものであり、その後琉球、清そして薩摩藩を始めとする日本も、欧米からの厳しい外圧に晒されていくことになる。
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