四平街協定と満洲善後条約
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「南満洲鉄道」の記事における「四平街協定と満洲善後条約」の解説
「四平街協定」および「満洲善後条約」も参照 1905年10月30日、日露両軍は四平街において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した(四平街協定)。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなったが、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過しており、車両や施設は応急的なものであり、全線にわたって信号機すらなかった。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に野戦鉄道提理部が管理していたのは昌図までであった。車両は機関車211両、貨車4,064両、客車88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため水槽・給水管・圧力計が氷結し、これにより水が不足して蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった。日露両国は昌図以北公主嶺までを1906年5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた。これについては、いずれは国際標準軌(4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要だった。 小村外相はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ。日本側全権は小村と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨(中国語版)、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった。交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった。 小村は、この条約において露清密約から引き継いだ鉄道利権の条項遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)。 小村はまた、安東・奉天間の安奉鉄道および奉天・新民屯間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあって交渉は難航したが、結局これには応じなかった。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、遼河以東の改築資金の半額は日本からの借款となった。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである。
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四平街協定と満洲善後条約
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「四平街協定」および「満洲善後条約」も参照 1905年10月30日、日露両軍は四平街において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した(四平街協定)。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなったが、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過しており、車両や施設は応急的なものであり、全線にわたって信号機すらなかった。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に野戦鉄道提理部が管理していたのは昌図までであった。車両は機関車211両、貨車4,064両、客車88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため水槽・給水管・圧力計が氷結し、これにより水が不足して蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった。日露両国は昌図以北公主嶺までを1906年5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた。これについては、いずれは国際標準軌(4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要だった。 小村外相はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ。日本側全権は小村と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨(中国語版)、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった。交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった。 小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)。 小村はまた、安東・奉天間の安奉鉄道および奉天・新民屯間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあって交渉は難航したが、結局これには応じなかった。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、遼河以東の改築資金の半額は日本からの借款となった。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである。
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