一貢免除問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「一貢免除問題」の解説
1722年、康熙帝が亡くなり、雍正帝が即位する。中国の皇帝が亡くなり新帝が即位すると、琉球は慣例として亡き先帝を弔う進香使と新帝の即位を祝う慶賀使を派遣する。通例進香使と慶賀使は同時派遣であり、この時も合同で使節を組んだ。琉球は清の代替わりに際して、薩摩藩の協力を仰いで新帝雍正帝への貢物を整えていった。琉球側としては1719年に尚敬の冊封が行われたばかりであり、万一、清から雍正帝即位を知らせる使者がやってきたら、財政を圧迫することは確実であった。そのため琉球としては速やかな使者の派遣を求め、薩摩側も琉球側の懸念を認め、新帝即位に相応しい貢物の用意について協力をした。 新帝の雍正帝は琉球からの使者を厚遇し、慣例通りのもの以外に数多くの特別な下賜品、それに雍正帝直筆の扁額を琉球国王に下賜した。1725年6月、皇帝直筆の扁額など多くの下賜品を携えて帰国した使節を迎えた国王尚敬を始めとする琉球王府は、新帝の厚遇に対して謝恩使を送るべきであると判断した。これが思いもよらぬトラブルの原因となった。 1725年は2年ごとの進貢が行われる年ではなく、接貢船の派遣年度であった。琉球側はこの接貢船の派遣とともに謝恩使を送ることにして、薩摩側と協議の上で雍正帝への貢物を用意した。謝恩使の来訪を受けた雍正帝は琉球の真心を褒め称えた上で、自分としてはこれら貢物を受け取りたいとは思わないが、遠路はるばる持参してきたものを持って帰れとは言えないとして、その代わりに翌1726年の進貢を免除するとの決定を下す。この雍正帝の決定は琉球側に大きな衝撃を与えることになる。進貢と接貢はワンセットであり、1726年に進貢出来ないとなると翌1727年の接貢船も必然的に派遣できなくなる。つまり朝貢貿易が2年間出来なくなってしまうのである。 現実問題として琉球の1726年の進貢を差し止めることは無理であった。なぜなら1725年の謝恩使の貢物を1726年の進貢に充てよとの雍正帝の命令を、進貢船の出発前に琉球側が知ることは不可能であったからである。清側もそのあたりの事情は理解し、1726年は通例通りの進貢が認められたものの、今度は1728年の進貢を免除するとの話となった。1726年の進貢使は清側に進貢免除の取りやめを嘆願したが、認められなかった。しかし琉球は1728年に、雍正帝の一貢免除の命令を知りながら進貢船を派遣する。雍正帝は進貢使を追い返すことはせず受け入れたものの、改めて1730年の進貢の免除を命じた。雍正帝の固い意思を知った琉球側は薩摩側と協議して一計を案じた。1730年は接貢船を出さず、代わりに国子監での琉球留学生に対する謝恩等の名目で謝恩使を派遣しようとしたのである。しかし派遣前に接貢船も謝恩船も派遣の必要無しとの清側の意向が確認された。窮地に立たされた琉球側はいつもの進貢使よりも高位の人物を清に派遣して、一貢免除の取り下げを願うことになった。 三度自らの命令を無視された形となった雍正帝であったが、1730年の進貢使も追い返すことはせず受け入れた。しかしやはり今度は1732年の進貢を免除するとの命を下した。同じ事態が1732年にも繰り返された。やはり琉球は1732年も進貢を強行し、雍正帝はこれまでと同様に追い返すことなく受け入れはしたものの、1734年の進貢の免除を命じる。さすがにこれ以上雍正帝の命令を受け入れないのはまずいと判断した琉球側は、1734年の進貢は断念した。しかし1734年には慶良間諸島に漂着した朝鮮人の送還を名目とした解送使を派遣しており、琉球の朝貢貿易の空白は1735年の接貢船派遣の一年のみで済んだ。 その後雍正年間と同じような一貢免除問題が乾隆年間にも起きている。1744年と1758年は、1734年と同様に謝恩使の派遣後、乾隆帝に命じられた一貢免除を琉球側が飲まざるを得なかった。しかし謝恩使の派遣後という前例から判断して1789年に一貢免除の可能性が高まった際には、琉球は清側の関係者に工作資金を投入するなど強く働きかけた。結局、一貢免除の回避が乾隆帝の命で認められた。その後も新皇帝即位の慶賀使、冊封使の御礼や扁額の付与後などの謝恩使派遣後には、琉球側は一貢免除の決定が下されないように念入りに対策を講じ続け、嘉慶年間の1808年以外は一貢免除の回避に成功した。
※この「一貢免除問題」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「一貢免除問題」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。
- 一貢免除問題のページへのリンク