一谷入道御書とは? わかりやすく解説

一谷入道御書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:43 UTC 版)

倭寇」の記事における「一谷入道御書」の解説

建治元年五月八日) 「百姓等は男をば或は殺し或は取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け或は取りにす。一人も助かる者なし」

※この「一谷入道御書」の解説は、「倭寇」の解説の一部です。
「一谷入道御書」を含む「倭寇」の記事については、「倭寇」の概要を参照ください。


一谷入道御書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「一谷入道御書」の解説

元寇」を参照 文永の役の際の元・高連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮接した当時伝聞伝えられている。 (前略去文十一年(太歳甲戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテシニ対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどりニシ、女ヲハ或ハ取集とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス一人モ助カルナシ壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) この「一谷入道御書」は日蓮佐渡配流中に世話になっていた一谷入道女房宛てて文永の役翌々年書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたのである。これによると蒙古軍上陸後宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し島内民衆殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々実際に行われたことかどうか詳らかではない。

※この「一谷入道御書」の解説は、「日蓮」の解説の一部です。
「一谷入道御書」を含む「日蓮」の記事については、「日蓮」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「一谷入道御書」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一谷入道御書」の関連用語

一谷入道御書のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一谷入道御書のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの倭寇 (改訂履歴)、日蓮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS