その他の書簡における蒙古襲来についての記載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
「日蓮」の記事における「その他の書簡における蒙古襲来についての記載」の解説
日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している。 しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている。
※この「その他の書簡における蒙古襲来についての記載」の解説は、「日蓮」の解説の一部です。
「その他の書簡における蒙古襲来についての記載」を含む「日蓮」の記事については、「日蓮」の概要を参照ください。
- その他の書簡における蒙古襲来についての記載のページへのリンク