明の支配と紫禁城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
また、成祖は北平に、元の宮城を基礎とした宮殿を計画し、自身の宮廷にする計画を立てた。そして、実行に移されたのが1406年で、元帝国のフビライ・ハーンが築いたハーンの宮殿を徹底的に破壊・略奪・壊滅・荒廃させ、元の時代の遺構をなくしたうえで、その跡地の上に新たに紫禁城(現在の故宮博物院)を建設した。[疑問点 – ノート]元の宮城の敷地を大部分受け継いだものの、南へ約500メートル移動させ、明の宮殿として使用した。また、現在の故宮博物院の北にある景山は、このとき宮殿の堀を掘った際に出た余り土を積み上げて造られた、人工の山である。[疑問点 – ノート] その後、永楽帝が作らせた城壁では北京の人口は抱えきれなくなり、新たに「回」の字の城壁、即ち外城の建設に取り掛かった。計画は回の字状であったが、予算の都合で内城の周囲をぐるりと囲むことはなく、内城の南側に長方形の町が連結される形となった。
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