琉球使節手合せ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/28 08:57 UTC 版)
寛延元年(1748年)に琉球使節が来訪した際、随員の田上親雲上、与那覇里之子の2名が、1710年の使節に続いて、島津家を通じ対局を願い出た。この時に唯一の七段であった因碩が対局することとなり、12月25日に薩摩藩邸にて、因碩が田上と三子、門弟の岡田春達が与那覇と四子で対局、因碩、春達とも敗れた。勝った田上は、五段(上手に先)の免状を求めたが、先例は三段(上手に二子)であったところから、四段(上手に先二)を与えた。この時因碩は、過去の本因坊道策、井上道節因碩による琉球使節への免状発行と同じく「日本国大国手」と署名した。
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