幕府による年貢増徴政策と近江
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「近江天保一揆」の記事における「幕府による年貢増徴政策と近江」の解説
天保12年5月15日(1841年6月21日)第12代将軍徳川家慶は江戸城大広間に幕府要職者を集め、改革の趣意に従うように命じ、綱紀粛正と冗費倹約を求める厳しい申し渡しを行い、天保の改革が始まった。天保の改革は『貨幣経済・消費生活』に対抗する『農本主義・経費削減』を基本原則とした禁欲的な政治改革で、『奢侈禁止令・倹約令』が出されると共に、天保12年11月(1841年12月)には、物価引下げを目的として『株仲間の解散』、重農主義と年貢収入増加の観点から江戸に流入している農村出身者を帰らせる『人返し令』が出された。併せて、幕府財政の根幹である年貢増の抜本策として検地による幕府年貢収入増加が目指された。 正保2年(1645年)の全国総石高は2,455万石で、近江は陸奥143万石・出羽97万石・武蔵98万石・常陸84万石に次ぐ第5位83万石とされたが、天保5年(1834年)時点では全国総石高3,055万石、陸奥287万石・出羽130万石・武蔵128万石・越後114万石・常陸101万石・近江85万石と、近江は全国第6位に下がり、上位の国は少なくとも3割以上石高が増えている中微増に留まっていた。公の力(幕府)で延宝の検地以来抜本的な検地活動が行われていない近江に対し、幕府が検地による石高積み上げを行おうとしたことは当然の成り行きであった。 そして、湖東・湖南域は天領と幾つかの他国大名以外は小藩・旗本の領地であり、幕府にとり検地を行う上でこれらの領主は扱い易い相手であると共に、享保7年(1722年)と安永6年(1777年)に幕府が出した『私領地先の山野河海は、一円を私領で囲まれる土地以外、公儀によって開発されるべき』との幕令により、湖東・湖南域の新開場は幕府のものとなる土地であった。
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