幕府による年貢増徴政策と近江とは? わかりやすく解説

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幕府による年貢増徴政策と近江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)

近江天保一揆」の記事における「幕府による年貢増徴政策と近江」の解説

天保12年5月15日1841年6月21日第12代将軍徳川家慶江戸城大広間幕府要職者を集め改革趣意に従うように命じ綱紀粛正冗費倹約求め厳し申し渡し行い天保の改革始まった天保の改革は『貨幣経済消費生活』に対抗する農本主義経費削減』を基本原則とした禁欲的な政治改革で、『奢侈禁止令倹約令』が出されると共に天保12年11月1841年12月)には、物価引下げ目的として『株仲間解散』、重農主義年貢収入増加観点から江戸流入している農村出身者帰らせる人返し令』が出された。併せて幕府財政根幹である年貢増の抜本策として検地による幕府年貢収入増加目指された。 正保2年1645年)の全国石高は2,455万石で、近江陸奥143万石出羽97万石武蔵98万石常陸84万石に次ぐ第5位83万石とされたが、天保5年1834年時点では全国石高3,055万石陸奥287万石出羽130万石武蔵128万石越後114万石常陸101万石近江85万石と、近江全国第6位に下がり、上位の国は少なくとも3割以上石高が増えている中微増に留まっていた。公の力(幕府)で延宝検地以来抜本的な検地活動が行われていない近江対し幕府検地による石高積み上げ行おうとしたことは当然の成り行きであった。 そして、湖東湖南域は天領幾つかの他国大名以外小藩旗本領地であり、幕府にとり検地を行う上でこれらの領主扱い易い相手であると共に享保7年1722年)と安永6年1777年)に幕府出した私領地先山野河海は、一円私領囲まれる土地以外、公儀によって開発されるべき』との幕令により、湖東湖南域の新開場は幕府のものとなる土地であった

※この「幕府による年貢増徴政策と近江」の解説は、「近江天保一揆」の解説の一部です。
「幕府による年貢増徴政策と近江」を含む「近江天保一揆」の記事については、「近江天保一揆」の概要を参照ください。

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