幕府による銀山開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)
大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた。 安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。 海岸部には炭生産のノウハウを有するたたら経営者の製鉄工場が林立し、たたら経営者の中には銀採掘に使われる道具などで消費される鉄と銀製錬のために消費される炭とを本年貢や鍛冶年貢の代替として供給する者もあった。 2017年5月には町年寄を務めた家系の家屋から江戸時代の鉱物資料標本が発見されている。
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