幕府の取り締まり強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「幕府の取り締まり強化」の解説
このような薩摩藩による琉球貿易で入手した中国産品、いわゆる唐物の抜荷は長崎における唐物の売れ行きに悪影響を与えた。そして輸出品である昆布等の集荷も困難をきたすようになった。19世紀に入ると長崎会所の収支は赤字になっており、その要因のひとつとして薩摩藩の唐物抜荷と蝦夷地産の俵物の抜荷が挙げられていた。 薩摩藩側のやり方に危惧を抱いていたのは、日本側ばかりではなかった。文政8年(1825年)の段階で、長崎で貿易を行っている中国人商人は、琉球貿易で中国にもたらされている昆布等の海産物は、調べてみると薩摩から琉球を経由して中国に輸入されていることが判明したとした上で、長崎ルートよりも早く中国にもたされる上に安価で質が良いため、長崎で貿易に従事する中国人商人の商売を圧迫するのみならず、長崎会所の経営状態に悪影響を与えると長崎奉行所に訴えていた。 しかし薩摩藩は大藩であり、その上、時の将軍徳川家斉の御台所、広大院の実父は島津重豪であり、将軍家と薩摩藩主の島津家は縁戚関係にあった。幕府にとって薩摩藩が深く関与している琉球貿易を規制していくことは困難であったが、抜荷の摘発を通じて蝦夷地産の俵物等の集荷に打撃を与え、薩摩藩側に圧迫を加えていくことがもくろまれた。 天保6年(1835年)7月、勘定奉行の土方勝政は久世広正とともに唐物抜荷、俵物抜荷の取り締まりを求める言上書を提出した。言上書の中で土方と久世は、唐物抜荷と俵物抜荷は対になって発生している事象であると指摘した上で、松前藩に俵物抜荷の取り締まりと俵物の長崎会所以外への販売厳禁、そして薩摩藩には唐物抜荷の取り締まりを要求し、幕府公認の薩摩藩の長崎商法の差し止めを示唆する通達案を提示した。この通達案は天保6年(1835年)末には薩摩藩、松前藩に実際に申し渡されることになる。
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