幕府による銀山支配の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)
「石見銀山」の記事における「幕府による銀山支配の終焉」の解説
石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり、地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。 1866年(慶応2年)6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・浜田藩・松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出しその後落城した。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。以後、旧石見銀山領は長州藩によって支配されることとなり、鍋田成憲が逃亡したのちに発生した一揆は長州藩などによって鎮められた。そして、1869年(明治2年)8月に大森県が設置されたことによって長州藩による支配は終わった。
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