幕府による登庸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:20 UTC 版)
寛政元年(1789年)、実子(長男)である松田魏丹(護孝)の江戸宅に滞在していたところ、幕府御側御用取次の小笠原信喜を通して、小笠原の侍医であった松田魏楽の養子魏丹の実父が古川古松軒であることを聞きつけた幕府の重鎮の松平定信の要請があり、1月22日に古松軒は定信の屋敷に召された。古松軒は奥州松前の紀行を献上し、またコンパスによる測量法を説明した。 寛政3年(1791年)、老いを感じて自ら棺桶を作り、「浅間しな名利の重荷捨兼ねてつゑつくまでに老にけるかな」「花に月に紅葉や雪と事しげき世をはなれては閑となりけり」と記した。 こののち京都に遊んでいた所、寛政5年(1793年)3月、関東郡代・久世広民より倉敷代官所を通じて江戸への招集命令が下った。一度は老齢を理由に断ったが、7月に再び命を受け、やむ無く8月に出発、9月21日江戸箕輪町の実子松田魏丹宅に到着した。 江戸では取次坂東新八、公用人白井官次等を通じて『東遊雑記』『西遊雑記』や各種絵図を献上した。寛政6年(1794年)2月5日、老中戸田氏教より武蔵国地誌編纂を命じられ、普請役柏原由右衛門、小人目附室田留三郎と江戸郊外を廻り、『武蔵五郡図』『四神地名録』を著した。12月25日、帰国を許された。
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