幕府の奨励
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 20:02 UTC 版)
江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の当時、儒学者として知られていた青木昆陽が、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直により江戸町奉行・大岡忠相に推挙され、幕府の書物を自由に閲覧できるようになった。昆陽は同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた『蕃藷考』を著し、吉宗に献上した。 1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、九州出身の者の手を借り、江戸小石川植物園、下総の馬加村(現・千葉市花見川区幕張町)、上総の九十九里浜の不動堂村(現・九十九里町)において試験栽培し、1735年に栽培成功を確認。「薩摩芋」はこれ以後、東日本にも広く普及するようになる。 1734年、 昆陽は『甘藷記』を記し、普及に努めている。編纂は越智直澄。共著は小比賀時胤、越智直澄、医官の野呂元丈。 1736年(元文元年)昆陽は幕府より薩摩芋御用掛を拝命し、幕臣となった。 サツマイモの普及イコール甘藷先生(青木昆陽)の手柄、とするには異説もあるが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。 詳細は「青木昆陽」を参照 1801年(享和元年)以降、名代官として知られた幕府旗本の早川正紀が、代官として支配していた武蔵国久喜周辺にサツマイモの栽培を推奨した。 余談となるが幕府はこの頃、同じような目的からジャガイモの普及・栽培も奨励している。
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