幕府の留守居
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幕府における留守居は、老中の支配に属し、大奥の取り締まりや通行手形の管理、将軍不在時には江戸城の留守を守る役割を果たした。 役高は5000石で旗本から選任され、定員は4名から8名、旗本で任じられる役職では側衆(役高5000石)、大番頭(役高5000石)と並んで最高の役職であった。万石以上・城主格の待遇を受け、特権として次男まで御目見が許された他、下屋敷を与えられた。初期はまとめ役である「大留守居」が設置され、旗本でも側衆と共に最高位の格式が与えられた。しかし、将軍が江戸城から外出する機会が減少したことと幕府機構の整備による権限委譲によって、その地位は低下し、元禄年間前後には長年忠勤を尽くした旗本に対する名誉職と化した。 譜代大名が就任した例もあり、寛文5年(1665年)に伊予今治藩主松平定房が大留守居に任命され、延宝2年(1674年)まで務めた。元禄11年(1698年)に上野前橋藩主酒井忠挙が選ばれ、元禄13年(1700年)に辞任、同年に越後高田藩主稲葉正往が務め、元禄14年(1701年)に辞任したのを最後に、大名が大留守居になることはなかった。松平定房は高齢だったが健康という理由から任命されたが、酒井忠挙の場合は高い家格に合わせた閑職で、稲葉正往は辞任した年に老中に就任していることから昇進を控えた役職ではないかとされている。 本丸の他に西丸・二丸にも配置され、西丸留守居は若年寄の支配を受け、役高2000石で諸大夫役。二丸留守居は若年寄の支配を受け、役高700石で布衣役。両役ともに、長年勤仕を果たした旗本に対する名誉職であった反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いを含むことも多かった。 なお、似たような名前の職に留守居番(るすいばん)がある。これは留守居と同様老中に属し、宿直により大奥の警備、奥向きの用務を取り扱った。おおむね1000石の旗本が任じられた。留守居とは同僚ではあるが、直接上下関係はなかった。
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