幕府の対応とは? わかりやすく解説

幕府の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「幕府の対応」の解説

幕府は、水戸派川越藩松平直克政事総裁職)らの妨害により、北関東における筑波勢の横行に対して直接追討鎮圧乗り出すことができず、水戸藩周辺諸藩鎮撫要請するのみで、6月までこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政握っていたため、藩主慶篤は「幕府横浜鎖港実行しない限り筑波山立て籠る激派の鎮撫できない」と主張していた。 4月20日参内し家茂に対して朝廷横浜鎖港を必ず実行するよう指示し松平直克及び慶篤がその実行者指名された。一方で老中板倉勝静牧野忠恭らは、筑波勢による恐喝殺人によって関東一円治安極度に悪化していることを問題視しており、5月家茂江戸帰着機にすみやかに水戸藩対し筑波勢を追討するよう求め筑波勢の侵入備えて厳重な警戒態勢とってい松戸宿千住宿通過できるよう、市川身元確認用の「竜」字の印鑑送った。これに呼応する形で、市川諸生党と鎮派の一部計約600人余が藩主・慶篤のいる江戸小石川水戸藩邸に急行し、藩執行部から激派を駆逐し藩邸掌握した6月3日早朝登城した直克は板倉勝静酒井忠績諏訪忠誠松平乗謨の4人を排除するよう家茂迫り、彼らを登城停止追い込んだが、翌日には諸生党および鎮派の意を受けた慶篤が登城して直克を激しく非難し、直克もまた登城停止追い込まれ10日間余にわたって江戸城に主要閣僚誰も登城しないという異常な状態が続いた18日には直克の要求通り板倉ら4人が罷免されることになったが、20日家茂御前行われた評議において、直克が筑波勢の武力討伐反対したことで牧野忠恭井上正直から厳しく批判され奉行目付らも直克に猛反発したため22日に直克は政事総裁職罷免され翌日には水戸派外国奉行沢幸良らも罷免された。直克の失脚によってようやく筑波鎮圧方針定まり7月8日相良藩田沼意尊若年寄)が追討総括任命された。 また、7月19日には長州藩尊攘派武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩薩摩藩の兵らと京都市中で交戦し敗走した禁門の変)。このため7月23日には長州藩孝明天皇によって朝敵指定され朝廷幕府に対して夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し鎖港問題棚上げされた格好となった鎖港問題棚上げされたことで筑波勢は挙兵大義名分失い、この騒乱水戸藩内部抗争としての色彩強めていくことになった

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幕府の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 19:45 UTC 版)

ロシア軍艦対馬占領事件」の記事における「幕府の対応」の解説

長崎奉行岡部長常対馬藩対し紛争回避するように慎重な対応を指示する一方で不法行為詰問する書をビリリョフ艦長送り佐賀筑前長州をはじめ隣藩諸侯実情調査させ、対策議した有効な手は打てなかった。 幕府報告受けて驚き箱館奉行村垣範正命じて同地駐在ロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去要求させる。また外国奉行小栗忠順咸臨丸対馬急派して事態の収拾に当たらせた。 文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬到着した小栗忠順は、5月10日艦長ビリリョフと会見した。この第一回会談ロシア側は贈品謝礼口実藩主への謁見強く求め小栗謁見許可する旨を回答5月14日第二回会談小栗ロシア兵無断上陸条約違反であるとして抗議5月18日第三回会談藩主謁見実現求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正謁見対馬居留認めることになるので許可できないといわれたので)前言翻し謁見できない回答話が違うとビリリョフは猛抗議行ったが、小栗は「私を射殺して構わないと言い切り、交渉押し切った5月20日には小栗対馬離れ江戸向かった江戸戻った小栗は、老中に、対馬直轄領とすること、今回事件折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見受け入れず小栗7月外国奉行辞任することになる。 5月26日交渉行き詰まった対馬藩では藩主謁見実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦府中回航し、部下従えて藩主宗義和謁し短銃望遠鏡火薬および家禽数種を献じ長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は崎の永久租借要求し見返りとして大砲50門の進献警備協力などを提案した対馬藩側では幕府直接交渉して欲しいと回答して要求かわした沿道警備あたった藩内士民ロシア兵傲岸態度激怒したが、辛うじて事なきを得た

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幕府の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:14 UTC 版)

元禄地震」の記事における「幕府の対応」の解説

地震による揺れが最も激しかったのは小田原城下であり、家屋倒壊火災被害甚大1万近く家屋被害に登ったが、小田原領分復旧はその領主義務を負うものであった。この小田原藩対し幕府は金1万5千両復旧のため資金貸付け無利息10ヶ月賦で返済する決まりとした。 地震により広範囲崩れた江戸城石垣修復23家の大名手伝普請よるものであった。この普請江戸時代初期天下普請のように石材材木の様な普請材も手伝大名負担したわけでなく、幕府準備した普請材が用いられ、各大名資金人足出させるものであり、各大名のみならず幕府負担少なくはなかった。この修復事実上差配した鈴木修理長頼が残した鈴木修日記』には損所見聞から、被害規模応じた手伝普請大名指名石高による基準まで詳しく記述されている。 江戸城幕府領であれば幕府主導の下、各大名手伝い動員され御普請が行われたのであるが、大名領についてはその領主責任の追わねばならず、幕府貸付金を出すにとどまったまた、次項のように地震後浮説流言取り締まる御触れ出した

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