幕府の対応
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幕府は、水戸派の川越藩主松平直克(政事総裁職)らの妨害により、北関東における筑波勢の横行に対して直接に追討・鎮圧に乗り出すことができず、水戸藩や周辺の諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月までこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っていたため、藩主慶篤は「幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て籠る激派の鎮撫はできない」と主張していた。 4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、松平直克及び慶篤がその実行者に指名された。一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らは、筑波勢による恐喝・殺人によって関東一円の治安が極度に悪化していることを問題視しており、5月に家茂の江戸帰着を機に、すみやかに水戸藩に対し筑波勢を追討するよう求め、筑波勢の侵入に備えて厳重な警戒態勢をとっていた松戸宿・千住宿を通過できるよう、市川に身元確認用の「竜」字の印鑑を送った。これに呼応する形で、市川ら諸生党と鎮派の一部の計約600人余が藩主・慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸に急行し、藩執行部から激派を駆逐して藩邸を掌握した。 6月3日早朝、登城した直克は板倉勝静・酒井忠績・諏訪忠誠・松平乗謨の4人を排除するよう家茂に迫り、彼らを登城停止に追い込んだが、翌日には諸生党および鎮派の意を受けた慶篤が登城して直克を激しく非難し、直克もまた登城停止に追い込まれ、10日間余にわたって江戸城に主要閣僚が誰も登城しないという異常な状態が続いた。18日には直克の要求通り板倉ら4人が罷免されることになったが、20日に家茂の御前で行われた評議において、直克が筑波勢の武力討伐に反対したことで牧野忠恭・井上正直から厳しく批判され、奉行・目付らも直克に猛反発したため、22日に直克は政事総裁職を罷免され、翌日には水戸派の外国奉行・沢幸良らも罷免された。直克の失脚によってようやく筑波勢鎮圧の方針が定まり、7月8日、相良藩主田沼意尊(若年寄)が追討軍総括に任命された。 また、7月19日には長州藩尊攘派が武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩・薩摩藩の兵らと京都市中で交戦し敗走した(禁門の変)。このため7月23日には長州藩が孝明天皇によって朝敵に指定され、朝廷も幕府に対して「夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し、鎖港問題は棚上げされた格好となった。鎖港問題が棚上げされたことで筑波勢は挙兵の大義名分を失い、この騒乱は水戸藩の内部抗争としての色彩を強めていくことになった。
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幕府の対応
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「ロシア軍艦対馬占領事件」の記事における「幕府の対応」の解説
長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。 幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。 文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り、交渉を押し切った。5月20日には小栗は対馬を離れ、江戸に向かった。 江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。 5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。
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幕府の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:14 UTC 版)
地震による揺れが最も激しかったのは小田原城下であり、家屋の倒壊・火災被害は甚大で1万軒近く家屋被害に登ったが、小田原領分の復旧はその領主が義務を負うものであった。この小田原藩に対し幕府は金1万5千両の復旧のための資金を貸付け、無利息、10ヶ月賦で返済する決まりとした。 地震により広範囲に崩れた江戸城石垣の修復は23家の大名手伝普請によるものであった。この普請は江戸時代初期の天下普請のように石材・材木の様な普請材も手伝大名が負担したわけでなく、幕府が準備した普請材が用いられ、各大名に資金と人足を出させるものであり、各大名のみならず幕府の負担も少なくはなかった。この修復を事実上差配した鈴木修理長頼が残した『鈴木修理日記』には損所の見聞から、被害規模に応じた手伝普請の大名指名の石高による基準まで詳しく記述されている。 江戸城や幕府領であれば幕府主導の下、各大名が手伝いに動員され御普請が行われたのであるが、大名領についてはその領主が責任の追わねばならず、幕府は貸付金を出すにとどまった。また、次項のように地震後の浮説流言を取り締まる御触れを出した。
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