義教殺害後の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同心する大名がいたに違いないと考え、形勢を見極めていた。貞成親王も「諸大名」が関与していたのではないかと観測している。実際には、義教殺害は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。 翌25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定し、義教時代に失脚した人々の赦免を行っている。26日に義勝を政所執事伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移している。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。 将軍が殺された時に管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れたが、実際こうした幕府の対応の遅さに、赤松氏に有利に事態を収拾しようとした持之の明確な意図を読み取る見方もある。 本拠地の播磨坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。 7月1日、季瓊真蘂が坂本城を訪れて義教の首の返還を求め、満祐は首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、6日に等持院で義教の葬儀が行われた。
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