義政サロンの一員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 05:13 UTC 版)
長享元年(1487年)11月には南禅寺住持となり、前将軍足利義政より金襴の僧伽梨を受けるが、南禅寺には入らなかった。しかし義政との交流は深く、この頃建設中の東山山荘(慈照寺)に頻繁に招かれて参考意見を求められている。 同寺の有名な「東求堂」「同仁斎」の名は、横川が挙げた候補の中から義政自らが撰したという(それぞれ六祖大師法宝壇経「東方人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」、韓愈「聖人、一視同仁」より)。横川はこの他に観音殿の下層心空堂の扁額なども揮毫している。また同じく義政に伺候していた絵師・狩野正信(狩野派の祖)の初期の作品「観瀑図」に賛辞を添えている。 上記のごとく、横川は東山文化を支えた足利義政のサロンの重要な構成員であった。
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