義昭の挙兵
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元亀4年(天正元年、1573年)2月13日、義昭は朝倉義景や浅井長政、武田信玄に御内書を下し、遂に反信長の兵を挙げた。反信長派の諸将は大いに喜び、浅井長政が直ちに「公方様から御内書を下された」と各所へ喧伝したように、将軍が味方したこと大々的に喧伝し、どちらに付くか決めかねている者達を味方にしようとした。 一方、信長は義昭の裏切りに大変驚き、挙兵は義昭の意志ではなく、幕臣が勝手に企てたことだと言って、当初は信じようとしなかったという。信長としては、義昭はこれまで自身が支援してきた主君であり、その義昭に見限られたということは、信長派の大量離反、つまり総崩れに繋がることを危惧せざるを得なかった。そのため、信長は義昭に使者を急派し、息子を人質とすることで講和を申し入れた。 同月、義昭は朝倉義景の軍事力に期待し、上洛を命じた。だが、義景は一向に上洛する気配はなく、義昭は越前に使者を急派して、急ぎ上洛するように命じた。義昭は義景に対して、5,000から6,000の京都郊外の岩倉の山本まで出兵するようにと催促したが、義景は大雪で進軍が困難だと返答するのみであった。同月には信玄も遺憾の意を示し、義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。 同月中旬、義昭は石山や今堅田など志賀郡・高島郡、北山城の国衆らを、反信長として立ち上がらせようとした。 信長は柴田勝家や明智光秀、丹羽長秀、蜂谷頼高に命じ、2月26日に義昭方の石山城を攻め落とし、29日には今堅田城も攻め落として、京への入り口を確保した(石山城・今堅田城の戦い)。一方で、信長は講和の道も考え、28日に朝山日乗、村井貞勝、島田秀満の三人を使者とし、人質と誓紙を出そうとしたが、義昭は承知しなかった。使者は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと忠告した。 3月6日、義昭は三好義継と松永久秀の両名を赦免し、同盟した。 3月7日、義昭は勝算ありと判断し、信長からの人質を拒否し、信長と断交した。義昭は畿内近国に上洛の命を下し、摂津からは池田重成や塩河長光、丹波からは内藤如安や宇津頼重がこれに応じ、京都に入った。 3月29日、信長が義昭と対決するため、岐阜から上洛した。信長を出迎えたのは、細川藤孝と荒木村重の二人で、幕臣である藤孝は義昭を見限っていた。信長は三条河原で軍を整え、知恩院に布陣し、その総兵力は1万であった。一方、義昭は二条御所に数千の兵とともに籠城し、動く気配を見せなかった(二条御所の戦い)。 3月30日、義昭は先制攻撃を仕掛け、信長の京都奉行である村井貞勝の屋敷を包囲させた。貞勝は辛くも脱出したが、信長はなおも講和を求め、義昭の赦免が得られるなら、息子の信忠とともに出家し、武器を携えずに謁見すると申し出た。 4月1日、信長は吉田兼和を呼び出し、義昭の行動に関して、御所や公家衆はどう思っているか尋ねた。兼和は信長に対し、致し方ないことだと思っている旨を述べた。 4月2日、信長は柴田勝家らに命じ、下賀茂から嵯峨に至るまでの128ヶ所を焼き払わせた。信長はこのとき、御所に和平交渉の使者を派遣したが、義昭は拒絶した。 4月3日夜から4日にかけて、信長はさらに上京の二条から北部を焼き払わせた(上京焼き討ち)。その結果、市民が避難し、大井川で多数溺死した。さらに、信長は二条御所の周囲に4つの砦を築き、その糧道を断ち、城兵の戦意を喪失させた。 信長は義昭に降伏を勧告するため、朝廷を動かし、勅命による講和を義昭に求めた。義昭は進退窮まった結果、朝廷を頼り、正親町天皇の勅命講和を求めた。両者の間を斡旋したのは、関白・二条晴良ら3人の公家であった。 4月7日、義昭と信長は正親町天皇の勅命により、講和した。翌8日、信長は義昭に謁見することなく、京都を出発し、岐阜へと帰還した。一方、義昭が頼りにしていた武田信玄は病のため、4月12日に本国に引き上げる帰途で死去していた。
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