義昭の脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
三好勢は義輝異母弟の鹿苑院院主周暠をも殺害したが、一方で当時大和にあった松永久秀は義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。阿波に在国する足利義維(義冬)・義親(義栄)父子を擁する四国勢が畿内に進出してくると見越した久秀が、対抗するため自前の将軍候補を温存しようとしたとも考えられる。 畠山政頼(秋高)の重臣安見宗房は上杉謙信の重臣に宛てた6月24日付書状で謙信に挙兵を促し、慶寿院(義輝生母)の兄である大覚寺門跡義俊が越前の朝倉義景、若狭の武田義統、尾張の織田信長らを調略していることを伝えている。そして朝倉義景が松永久秀を調略し、事件から2ヵ月を経た7月28日、覚慶は義輝の旧臣一色藤長・細川藤孝らの手により奈良を脱出し、近江甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の和田惟政のもとに逃れた。以来覚慶は諸大名に支援を求める書状を送り、同年11月には六角義賢の庇護を受けて野洲郡矢島(現在の滋賀県守山市)まで進出した。翌永禄9年(1566年)2月に還俗して義秋と名乗り(後に義昭)、4月には次期将軍候補の例である従五位下左馬頭に叙任された。
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