義昭の追放とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:52 UTC 版)
7月19日、義昭は槇島城を退去して、枇杷庄に下り、20日に河内の津田に入った。枇杷庄に下る途中、一揆に御物など奪い取られたという。 7月21日、信長は槙島城を細川昭元に委ね、帰洛した。信長は義昭に味方した諸将を討つため、しばらく京都にとどまった。 7月28日、朝廷が信長の要請に応じ、元亀から天正へと改元を行った。信長のこの行為は義昭の権威の否定、反信長勢力の士気を挫く目的があったと考えられる。 8月、信長は淀城で三好三人衆の1人・岩成友通を討ち取った(第二次淀古城の戦い)。また、越前に出陣して、朝倉義景を自害させた(一乗谷城の戦い)。その直後、北近江へ向かい、9月に浅井長政も自害させた(小谷城の戦い)。 三好三人衆の残る2人である三好長逸、三好政康は行方不明となり、松永久秀、本願寺の総帥たる顕如は信長と和睦し、ここに信長包囲網は瓦解した。 義昭は僅かな近臣と共に河内の若江城、次いで和泉の堺、 紀伊の興国寺へと、各地を流浪し続けた。そして、備後の鞆にまで落ち延び、毛利輝元の庇護を受けて鞆幕府を樹立し、信長に抵抗し続けた。
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