義晴・晴元体制の成立
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一方、堺幕府の内部でも争いが起こっていた。高国の死により、足利義維が上洛し、新たな将軍になるかと思われた。だが、享禄4年8月には晴元の御前衆である木沢長政と細川持隆の支援する三好元長の争いが原因で、堺で晴元と持隆の両者が互いに籠城して争うという事態が発生した。 天文元年5月、義維方の抗争は止むことなく、畠山義堯は細川晴元への接近を図る自身の内衆でもある木沢長政を飯盛山城に包囲した。これに対して、晴元が山科本願寺法主の証如に援軍を依頼し、6月には一向一揆が畠山義堯を討ったばかりか、20万の軍勢が堺を包囲した。一向一揆に攻められた元長は顕本寺で自害し、義維も同寺で自害しようとしたが、晴元に捕らえられた。 10月20日、義維が堺を出て淡路に没落したことで、和睦の障害が消え去った。そして、11月7日に義晴と晴元の間で和睦が成立した。 天文3年6月、義晴は桑実寺から坂本に移った。すでに、六角定頼と細川晴元との間にも和睦が成立していた。入京を目前にして、奉公衆や奉行衆は政務の再開を連名で義晴に依頼し、8月から義晴は政務を再開した。 9月、義晴は六角定頼とともに入京したが、定頼は京に留まらなかった。定頼は在京中に国内の有力国人が伸長すること恐れており、在国しながら幕府政治への意見を望んだ。 他方、晴元もまた、三好長慶や木沢長政らとともに上洛し、義晴を擁立する政治体制が開始された。当時、京都に出仕していた大名は、晴元と同族の細川元常(和泉守護で三淵晴員の実兄)しかおらず、近江在国の定頼を加えたこの3人と義晴の協調の下で一時的な安定を迎えることになる。また、六郎の仮名を長年名乗り続けてきた晴元であったが、天文4年(1535年)に義晴の偏諱を受けて、晴元と名乗りを改めている。なお、天文6年(1537年)に晴元は定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えている。 義晴が帰京すると、様々な案件が舞い込むようになって、多くの政務処理が求められた結果、定期的に開かれる審理日だけは追いつかなくなった。また、管領に代わるべき定頼が上洛しなかったこともあり、義晴は京における政務の補佐・代行者を必要とした。 天文5年(1536年)3月10日、嫡男の菊幢丸(のちの義藤、義輝)が誕生すると、8月27日に義晴は将軍職をこの菊幢丸に譲る意向を示した(『鹿苑日誌』『厳助往年記』)。その際、菊幢丸を補佐し、政務を代行する「年寄衆」を指名している。その後、義晴は引退を撤回したが、その8名(大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆・朽木稙綱)の年寄衆は、後に内談衆と呼ばれて義晴政権の政権運営を支える側近集団となった。 天文10年(1541年)9月6日、長慶と政長が共同で旧高国系の国人・塩川国満を攻め、一庫城を包囲した。長慶は摂津で勢力を広げており、旧高国系の国人と衝突が相次いでおり、この年の7月にも長慶と政長が上田氏を攻め、自害させていた。当時、高国の後継者でもある細川氏綱が旧高国派の結集核として台頭しつつあり、塩川国満のように氏綱に味方しようとする国人もいた。 そのため、国光の内縁であった伊丹親興と三宅国村は木沢長政を頼り、9月29日に長政が弟を援軍として伊丹城に派遣すると、10月2日に長慶らは敗北し、各々の居城に退去した。その前日の10月1日、木沢長政は伊丹親興と三宅国村とともに、大舘尚氏に三好政長の成敗を訴えたが、幕府は細川氏内部の問題として介入しなかった。一方、晴元は三好政長に味方し、長政を避けて洛北に退去した。 11月2日、義晴は晴元側として、近江坂本に逃れた。長政の行動が義晴や晴元に認められないという状況になると、三宅国村が晴元に帰参した。さらに、同月18日に義晴は山名氏や仁木氏に対して、晴元に協力する旨の御内書を発した。 12月20日、義晴は天文の一向一揆の反省を踏まえて、石山本願寺の法主・証如に対して、河内の門徒が長政に味方しないよう御内書を発した。同月中、三好長慶と遊佐長教の間で、長政を討つ相談が行われ、長政は孤立無援に陥った。 天文11年(1542年)3月17日、長慶、政長、長教らは長政を太平寺の戦いで討ち、その首を義晴のもとに送った。これを受けて、同月に義晴は京に帰還し、新しい御所の造営に着手した。
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